チキンカレー 『タンダーパニー』 店主 又吉和男(前編)

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「あの時代に、食べるスパイス博物館」

記念すべき『職人味術館』の一番バッターは、僕カワムラがもっとも尊敬する飲食業界人のお一人、『タンダーパニー』の又吉和男さんです。

数々のメディアで取り上げられてきたこともあって、いまではすっかり大阪を代表する有名店。多くのファンからカレー界のカリスマ的存在として見られているようですが、僕にとっては、カレー云々の次元を超えちゃって、”先生”のような存在です。

ただ、前もって言っておきますと、又吉さんは決して説教じみたことを言う方ではありませんし、こちらから何かを尋ねても言われたことはありません。よく声をかけてくださいますが、その内容はいつも「忙しくしてるかい?」「奥さんは元気?」などといった、実に何気ない、でも愛情が溢れた一声です。

それだけなのに、ますます”先生”に見えてくるのです。

「人間は行動してなんぼ」。そんな又吉節がひしひしと肌から伝わってきている、ということなんでしょうか。

最初にお会いしたのは1992,3年頃。又吉さんの作るカレーにとてもカルチャーショックを受けたことをよく覚えています。それまでうまいカレーといえば、高級洋食レストランやホテルなどのカレーを指していました。焦げ茶色でとろみが強くて、甘辛くて、コクがどっぷりとあって、肉は牛肉が主役で、そりゃもう具沢山のあれ。

もちろん、インド風のカレーもありましたが極めて少数派です。そしてマニアックで、インドを理解していない者は寄せ付けない、そんな排他的な印象があったかと思います。また、インド風は水っぽくてコクがなくてやたらと辛いというイメージもありました。だから、息が詰まるというか痛い目に遭うというか。

そんな中で『タンダーパニー』は一見マニアックかと思いきや、一般的なファッションのおネーさんたちの姿も多かったし、店の門も実に広く緩やかでした。そしてなによりも、カレーを食べるのも見るのも楽しかったのです。

辛いのに、それだけじゃない。さらさらというほど水っぽくないし、逆にとろみがあるわけでもない。どこからともなく旨みが沸いてくる。何かこう、日本には存在しない奇妙な香りと味と食感がするのです。その大きな鍵となっていたのがスパイスでした。

それまでの日本はスパイスなんておそらく数種類しか認知されておらず、スーパーや百貨店でも10種類もなかったんじゃないでしょうか。誰も見向きもしなけりゃ興味もないような時代といっていいと思います。

でも、又吉さんが作るカレーからは、見たことのないスパイスが容赦なくぽろぽろと顔を出してくるのです。

長さ1センチくらいの木の実のような形をしていて、噛むと目が覚めるような強烈な爽快感ともいえる刺激のあるもの(グリーンカルダモン)、歯医者で使う麻酔か痛み止めのような小さな木の棒みたいなもの(クローブ)、またプチプチとした食感でインド人の体臭のようなにおいのする種のようなもの(クミンシード)などが、明確に肉眼で見ることができるのです。まさに、食べるスパイス博物館でした。

でも、そう簡単に店の人に聞くわけにはいかない。当時は、店側とお客さん間に良い意味での目には見えない太い一線がしっかりとあったのです。さらに、プロに向かって素人が気安く何かを聞くなんてのはいろんな意味で失礼という感覚もありました。

だから1人で葛藤するのです。味覚を研ぎ澄まし、スプーンで何度もカレーをすくってはたらし、チキンやライスを撫ぜたり擦ってみたり。

そして謎だらけのスパイスの残像を頭の中にしっかりと焼き付けたら、次は手を尽くして調べます。が、当時はネットも携帯電話もない時代ですから、おのずと書店の梯子になることが多かった。で、これがまた時間が掛かるのなんの。

いくら探しても見当たらないので店員さんに聞きます。
「あのぅ、スパイスの説明を一杯書いていて、写真も載っていて、どの国からきて、それはいったいなにで、使い方というかカレーになるのかならないのかとか、そういうことってわかる本はありますか???」
「スパイスって?ひょっとしてインドの?う〜ん、旅行記とかならありますけど料理書ってあるのかな・・・。また調べておきますよ」。

そして5分歩いて別の書店へ行き、同じことを聞いて同じような答が返ってくる。でもって1週間後に再び出かけて「あのときの店員さんはどこ?」となり、「誰かわかりませんね」とか「今日は休みです」とかなったりして、また後日、あるいは別の書店を探す、ということを延々と繰り返すのです。で、最終的にはそんなありがたい本とは出合わないわけですけどね。

そんな悶々とする日々の中、また食べるスパイス博物館へ出かける。
「今日は大盛りでください!」
すると又吉さんは、ゆっくりと顔の筋肉が緩んで「よっしゃぁ、ぶぁわっはっはっは・・・・」と笑ってくれます。

タマネギとスパイスの香りが充満する店内で、パワフルな換気扇のブォ〜〜〜〜ンと響く。時折カチカチとスプーンが皿に当たる音が聞こえてきます。壁にはインドのいろんなスパイスが袋に入って垂れ下がっているのですが、これがまた色あせていて何と書いてあるのかが見えない。

カウンター上に積んであるぼろぼろになったインド紀行本などに手を伸ばし、写真のページばかりを探しては立ち止まり、妄想という前菜でどんどんお腹が膨らんでいく。

そして、ついにカレーがやってくるわけでありますが、いま思えばかなり変な客です。普通はばくっとがっつくものですが、僕の場合は最初にスプーンでほじほじとして、目を真ん丸くして「うぅ〜ん」なんて唸りながらようやく口の中へ入れて、舌で撫ぜながら食べていく。

こういう食べ方は子供のときからの癖、つまり本能としてありました。舌触りは少しザラッとした感じ。洋食カレーとはまったく違う感覚。最初の一口目は漢方薬みたいな目がつんと来るような香りがあって、直後に野菜の甘みがふんわりと。で、これがインドスパイスなんだろうなと思えるような独特の風味があって、だんだん辛みが。

で、またスパイスに目を凝らしながら、いったいこれはなんだ!などと心の中で叫んだり唸ったりしながら頬張る。でも、やっぱりなにがなんだかわからないもんだから、ひょっとしたら困った顔になっていたかもしれません。

汗ばんだところで300cc級の大きなコップに注がれた冷水をぐびぐびと。『タンダーパニー』は水のおいしさも格別でした。当時は水を買う風習がないというか、まず売ってない。浄水器じたいが希少な時代に、見たこともない立派な浄水器があったのです。

その水をばんばんと飲ませてくれる。これは当時の常連客たちのカレーとセットのご馳走であったに違いありません。

カレーの話に戻り、稀に勇気を振り絞って質問を投げかけます。何かひとつ聞ければラッキーな状況ですから一発勝負です。僕はスプーンの上に、1センチほどの木の実のようなものを載せて、又吉さんに見せるようにしてこう聞きます。

「あ、あ、あのぅ、こ、これは、なんというものなんですか?これはスパイスの一種なのでしょうか?」

「あ?あぁ、それはカルダモンっていうねん。カルダモンにもいろいろあってグリーンカルダモンというやつ。わっはっはっは〜〜〜」

「え?なんですか?なんとおっしゃいました?」
「ブォ〜〜〜〜〜〜〜〜ン、・・・・・・・・・・」

厨房は細長い店内の端っこに位置し、換気扇は音が大きいこともあり、又吉さんと会話をするのはなかなか難しいものがありました。

そしてまたお客が来店。さらにカウンターを掃除もしなければならない。こうして質問を出来る状況というものが、より貴重になっていくわけです。

僕の胸中はあらゆ妄想で爆発寸前です。家か店に戻って、再びその記憶からイメージを広げ、あちこちで買い集めたスパイスやカレー粉を駆使して、あーでもない、こーでもない、と研究を繰り返します。

もちろん、これらのことを何百回やろうとも、又吉さんのカレーをコピーすることはできません。カレーそのものもうまくできないくせにね。

やがて、縁あって食にかかわるライター業に恵まれ、真っ先に取材したのが『タンダーパニー』であったことはいうまでもありません。堂々と質問をしてもよい、という状況を手にいれたことが、あまりにも嬉しかった。

しかし、知れば知るほど、もっと深いものだということもわかってきました。繰り返すほどに、完全コピーは不可能であることを徐々に思い知らされていくのです。もちろん、又吉さんは何年経とうとも立場が変わろうとも、いちいち作り方までを教えません。

初めて又吉さんとお会いしてからもう20年ほどが経ちます。僕の人生は何かと紆余曲折していますが、又吉さんはあの時とまったく同じリズムで今日も繰り返しの生活に見えます。そして『タンダーパニー』のカレーはいまだに飽きがこない。

もはや、味を越えた存在。方法論やスパイスがどのうというより、どこを調べたって載ってない又吉さんの生き様というものを知らぬうちに肌で学んでいるようです。


タンダーパニー・昼

『タンダーパニー』

鮮烈なスパイスの風味をかもすさらさらとしたカレーと、やや固めに炊かれたジャポニカ米。そしてスプーンだけで骨からぽろりと肉が外れるチキンと、オニオンスライスをかけるのがお決まり。調味料や旨みブイヨンなどを使わないインド家庭式の料理なので、毎週食べても飽きが来ない。店主は毎日1食継続中。時流に惑わされることなく、1990年開業以来ずっと変わらぬスタイルでやり続けている。
いまや全国に名が轟く大阪代表格の一軒だ。

●大阪府吹田市千里山東1-18-3 06-6387-0389 11:30〜14:30(O.S14:20) 17:00〜20:30(O.S20:20) バータイム22:00〜 カウンターのみ10席 水曜休 阪急千里線「関大前」駅から北へ徒歩約5分
実はこちらは2号店。1号めは又吉さんのお姉さんが阪急宝塚線曽根駅近くに開業(現在閉店)。

すっきりとした辛みのチキンカレー。小盛600円〜特大盛1500円まで5段階あり。普通盛はチキンが2本入って700円。ライタ、サモサ、チャイとのセット1400円。持ち帰り可。パック発送可1人前600円〜(送料別)。バータイムはノーチャージ。ドリンク500円〜。