丹乃國蕎麦『拓朗亭(たろうてい)』 店主 矢田昌美(後編)

甘皮を残した蕎麦。鮮度がいいと薄っすらとした緑色。長野の名店『ふじおか』にて。左が藤岡さん、真ん中に岡本さん、手前が奥様。(1990年代半ば) 長野のほかの蕎麦屋を尋ねる矢田さん。(1990年代半ば)独自開発した石臼。(1990年代半ば。写真/sobasen)矢田さんが発行していた人気の新聞「そば屋の蕎」。写真は1996年11月7日発行分四国のとある生産者を尋ねる矢田さんご夫妻。写真/sobasen

「勇気と自信の礎〜その2」

その1のあらすじ
山形で「蕎麦はおいしいものだった」ことを初めて知った矢田さん。それまで調理師として従事していた某有名ホテルを退職し、1985年に多額の借金を抱えて『拓朗亭』を開業。二八蕎麦をはじめ、うどんやご飯、定食も用意する食堂スタイルで駆け出す。それが、どうやって生粉打ち(キコウチ)蕎麦専門店に進化したのか。

”それまで世間の誰もが知られていないような、生粉打ちの蕎麦、というものをどうやって知られたのですか?”

「実はね・・・・・・雑誌からです。確かあれは太陽だったかな。この中で、鶯(ウグイス)色の蕎麦というものを生れて初めて見たんです。これが本物の蕎麦だ、生粉打ちの蕎麦だってね。びっくり仰天でした。十割蕎麦やのにこの色はなんや!と。また蕎麦の形も考えられないくらいに美しかった」

*太陽=1960年代に平凡社から創刊された名月刊誌。あらゆるテーマを最高の写真とデザイン、印刷で仕上げていたことで、雑誌や広告業界のあいだではあまりにも有名。2000年12月惜しくも休刊。
 
”なんだか意外です。ビジュアルから入ったというわけですね”

「そうなんです、見た目から。あと柴田書店の【そば・うどん】にもそれと同じものが載ってるのを見ましてね、これ、いったいどんな味がするんだろうって、もう気になって気になって」

柴田書店とは特にプロから支持されている飲食専門の出版社。当時、ブログやネットが発達していなかったのはもちろん、東京といえども、蕎麦屋の特集はあっても、専門的な情報まで詳しく伝えている書物はあまりに希少でした。

そして、1990年前後のあるとき、矢田さんは長野県にあったその鶯色の蕎麦屋を探しに出かけたと言います。

「最初にまず店のあり方に驚きましたね。本当に山の奥深くにひっそりとあるんだから。で、いまはどうか知りませんがあの時は店内のお客は入換え制でした。入店に間に合わなければ、そこから2時間くらい外で待ってなきゃいけない。そんな厳しい状況なのに、大勢の人が山ん中で待ち続けているのです!うわ〜これが天下の藤岡さんかって凄みさえ感じました」

このとき矢田さんが尋ねたのは『ふじおか』というお店です。地元産の蕎麦や野菜のみを使用。玄蕎麦(ゲンソバ)の貯蔵や選別、皮むき、みがき、製粉など、一貫して自家製を貫き、純度精度ともに日本最高峰の水準を持つ生粉打ちの聖地です。プロアマを問わず、いまなお大勢の蕎麦ファンから支持され続けています。

「結局、ひととおり料理をいただき、藤岡さんとお話もさせていただきました。いやぁ、本当に凄い方ですよ」

”肝心の蕎麦はいかがだったんですか?また矢田さんにとってどんな収穫がありましたか?”

「確かに鶯色でした。また、その理由もはっきりとわかりました。玄蕎麦の黒い外皮を剥くと次に甘皮というものがあるんですが、良質なものはその甘皮が鮮やかな薄緑色なんですよ。また、蕎麦は正真正銘の本物の香りがガツーン!最初から最後まで蕎麦一色という感じでした。そしてなによりも、藤岡さんの姿勢に感動しましたね」

”やはり、産地に近いという環境や、貯蔵から選別、製粉まで徹底してやられている点にですか?”

「もちろんそういうのもありますけど、藤岡さんの諦めないその姿に。やるべきことをとことん実現されているあのたくましさ。そして、それに魅了されているファンがちゃんと育っていること。こういうと失礼かもしれないけど、あんな山奥で偽物だったらお客さんが暴れますよ。僕も頑張っていいんだ、間違ってなかったんだ、と勇気がわいてきましたね」

矢田さんは『ふじおか』以外にも、何軒か影響を受けた店があるとおっしゃいます。もちろん、当時近場(関西)に、自分が目指す店、影響を受ける店が皆無だったこともあり、おのずと北関東や信州に目が向いたようです。

こうして、矢田さんは本物の蕎麦、生粉打ちへの決意をますます固め、毎日のように紆余曲折を繰り返し研究に励みました。

そして1994年、ついに本格的な生粉打ち専門店の旗を揚げます。

店の前には延し場が増築。中には機械回転式の大きな石臼がゆっくりと回っています。また、ご自宅の裏側には巨大な貯蔵庫があり、真空パックされた玄蕎麦が山積みに。さらに玄蕎麦のサイズを揃えるための選別機が。当時、すでに蕎麦の自家栽培されていましたが、これはあくまで研究用で、玄蕎麦だけは仕入れに頼りました。

そして単に道具が揃っているだけではなく、これらのすべてに矢田さん独自の改造や調整が施されているのが特徴的です。家丸ごとが、長年の研究の成果を結集した、どこにもない『拓朗亭』蕎麦ファクトリーとなりました。

この時点で、いわゆる食堂的メニューはすべて消え、冷たい蕎麦が主役に。もちろん、まだまだ発展途上なことが多く、毎日が勉強と挑戦の繰り返しだったともおっしゃいます。

無謀なまでの借金と返済。表向きは食堂風というスタイルである程度の安定を図りつつ、裏側では珠玉の蕎麦にむかって挑戦の繰り返し。また良きイメージを与えてくれる同業者たちの存在。そして、いつも影にいらっしゃるけど、茨の道を伴に歩き続けている奥様の存在も大きかったとお察しします。

こうして『拓朗亭』が晴れて生粉打ち蕎麦専門店として進化した翌年に、前編でもお話した「野だてそば」イベントが始まりました。京都を中心に、関西でも美味しい手打ち蕎麦が食べられるというイメージが増すと同時に、後を追うように新たな手打ち蕎麦屋も急増していったのです。

これらのすべての原動が『拓朗亭』にある、とは言いきれませんが、真っ暗闇の中に大きな灯台の役割となっていたことは間違いないでしょう。

矢田さんはこうおっしゃいます。
「勇気や自信って、単なる思い込みやノーリスクの行動で生れるものではないですよ。どれだけ挑戦したか、そのひと言に尽きると思いますね。あれでダメならこっちでどうだ、ってね。100回やってダメでも101回目でうまくいくかもしれない。その繰り返しが自信となり、また次へと向かう勇気に変わる。失敗と成功はワンセットじゃないかな」

”骨身に染み入ってきます。しかし、矢田さんのような賭けに出る勇気は、なかなか持てるものではないと思ってしまいます。そもそも挑戦をする意欲ってものがそこまで続くかどうか”

「僕も同じですよ。でもね、山形で食べたときのあの感動はやっぱり大きかった。蕎麦の講釈じゃないんです。能書きや姿形を越えて、喜びという感動は人の心を幸せにしてくれる。別の言い方をするとしたら、その感動を提供できるのなら蕎麦でなくてもいいかもしれない」

”そのキーワードが本物であること、と”

「そう。つまり自分に正直かどうかってことです。ほら、たまにあるじゃないですか。その店がいくら有名でも、当の働いている人間が本当はしんどくて面倒でストレスだらけなんて話。そんなの偽物ですよ。作る側がまず喜び一杯でないと。それが本物の職人だと思います。幸せを感じていない人が作ったものは、どれだけ小手先を変えても、食べる人に幸せを伝えることは出来ないと思うんです」

”自分に正直になる、というのは、実に厳しいことですね。もしかしたら今やっていることの全部が嘘かもしれない。正直に生きるとみんなに嫌われるだろうし、ひとりぼっちになっちゃいそう。責任は全部自分が取らなきゃいけない”

「そう、時にそれは反逆行為ともとれるでしょうし、客からすれば裏切り行為に見えることもありえますよ。でも、それが自分に嘘をついていることだったら軌道修正していかなきゃ。革新ですよ。冒険心がなくなったらちょっと問題でしょ」

”ますます厳しいです”

「女性と一緒じゃないですか。カワムラさん、下心あるでしょ?え・・・いつも?それそれ、それが意欲の原点だと思います。溢れ出てくる思いに正直になる、というだけのこと。ま、女性に会うたび惚れていたんじゃ問題になりそうだけど、料理に正直になる分には罪にはならないでしょ。主張する矛先の問題ですよ」

矢田さんの話は複雑なようで実はシンプルであることがわかってきました。

「たかが蕎麦、されど蕎麦」。なにかと御託を言われやすい蕎麦ですが、僕は矢田さんの蕎麦を食べるほどに、言葉というものが頭の中から解け落ちていくのでした。

特別編へとつづく

『拓朗亭』