世界のごちそう『パレルモ』 店主 本山 尚義(中編)


「本山流の修業。料理と旅の両輪」〜その1

前回、本山さんが2年をかけて195カ国の料理を作り遂げたというお話をしました。そして今回は、本山さんが実際に行かれた海外旅行について伺いたいと思います。

国の数はざっと30カ国!とまぁ数の多さも目を見張るものがありますが、その行った先々で、必ず料理を学んで帰ってこられていることにも驚いてしまいます。

店には本山さんを取材している数々の記事のファイルが置かれており、多くがそのことについて語られています。「お目当てのレストランに飛び込みで志願し、そのまま厨房へ入れてもらったり」などと数々のエピソードが綴られています。

単純な言葉の連発ですが、やっぱり凄い。半端じゃない意欲と体力の持ち主だと思います。

本山さんに旅行と料理の経歴を並行しながら話を伺いました。まず、最初に行かれた国はどこなんでしょうか!?

「・・・・そうですね・・・。確か最初に行った国は・・・あれ、なんだっけ・・・あ、そうそう、フランスです!」

こ、この間はなんなんでしょう!もはや本山さんの頭の中には国境がない?!いろんな国に行き過ぎたのか、195カ国もの料理をして常にいろんな国が混在しているのでしょうか。本山さんの頭の中がますます興味深いです。

僕は勝手に興奮して気持ちが先走ってしまいました。

”フランスって憧れの国なんですよねぇ。一度行ってみたい!・・・・そうかぁ、う〜ん、お店の造りやメニューを見てると、インドや東南アジアの存在感もありますけど、やっぱり基調としてはヨーロッパ風ですもんね!”

「そうなんです、店の名前もイタリアの街の名前だし。まぁ僕は欲張りというか、アジアも好きだし、やっぱりヨーロッパも好き」

”旅先にフランスを選んだ理由は何かあってのこと?やはり料理ですか”

「ええ。僕は京都の大学に入学したのでそちらの店なんですけど、料理を志して、最初にフレンチレストランで働き出したのがきっかけです。本場ってどんなんやろう?ほんまにこういう料理を食べているのかな?と、凄く興味がわきまして、それで」

店頭にはパエリアの食品サンプル、というよりも模型!?が飾られており、そのすぐ横の棚には何本ものワインの空きボトルが。そして黒板には「海老とキノコのクリーム煮、エスカルゴ、スップリ、アンチョビ」などの文字が並んでいます。

「で、実際に行ってみればこれがちょっとニュアンスが違っていました。三ツ星レストランへ行きまくったんですけど、食べるほどに本場の味を日本にもって帰るのは難しいこともわかってきました。やはり何もかも違いすぎるんですね」

”そうですか。ところで初めての海外旅行の気分はいかがでしたか?”

「ええ、それまで旅というものを特に意識したことはなかったんですけど、生まれて初めて飛行機ってモノに乗って、何時間かするともうそこは日本とは何もかも違う場所!こんな刺激的なことはないなと思いました。だから今でもたまに空港へ遊びに行ったりします。あそこにいるだけでワクワクしてくるから」

”空港は夢の宝庫ですね!で、その時はツアーでいかれたということですが、本山さんの旅先の写真を見ていると、いわゆるバックパッカーのよう。一人旅はいつ頃から覚えたというか、味をしめたというか?(笑)”

「うぅん、そうですね・・・・・まだもう少し後です。とりあえずまだまだゆとりがないですし、そのときは仕事をもっと覚えたいって気持ちが強かったですから」

”フレンチレストランにお勤めされたということですが、そもそも料理には興味を持っておられたと?”

「ええ、元々僕は料理が好きでした。小学生のとき料理クラブってものに入ってまして。メンバーは全員女子で、男は僕だけ。ま、それが楽しかったってのが一番の理由だったりして!あっはっはっはっ・・・・・」

”共感します。ドキドキがあるほどうまい料理が出来上がる!で、その後も料理を?”

「はい、大学時代に信州のペンションで泊り込みバイトをしたんです。ただ、そのときは漠然としていました。なんかこう全国各地の人々と出会えて面白そうだなぁなんて、そんなぼんやりとした感じで。

それが、色んな仕事をさせてもらううちに、オーナーから君は料理のセンスがあるからって見込まれまして、仕入れからすべて君に任せると言い出したんです。一瞬プレッシャーも感じましたけど、僕は思い切って、ぜひ、と飛び込みました。

で、これがいざやってみると、とてもやり甲斐があって楽しかったし、勉強になりました。料理人を志す大きなきっかけになったと思います」

昔から、特に男は旅をして大きくなっていくなどと言われていますが、本山さんを見ているとまったくその通りだとひしひしと感じます。単に何を食べた、こんなものを見た、ということではなく、今の自分の殻を打ち破ることが旅の本質なのかもしれません。

”20歳前後の多感なときに、本山さんは持ち前の行動力でいろんな人と、またご自身とも出会ったということですね”

「そうですね。その後、信州から京都の下宿先に戻ってきて、ある日友人を招いて料理をもてなしたら、みんながとても喜んでくれまして。その時に、料理ってほんまに素敵やな、よし、俺は明日からプロとしての修業をする、なんて思いまして、その翌日に先ほどのフレンチレストランへ面接に行ったわけです」

”なんと行動が早い! 大学はどうなったんですか?”

「はい、やめました」

淡々と、なおかつニコニコと、大胆な発言をする本山さん。ますます面白くなってきました。

「やがて僕は実家のある神戸へ戻りまして、ポートピアランドの地中海料理店へ勤めだします。京都のお店はオーナーシェフと僕の2人だけという小さなところでした。しかし今度はその何倍もの広さがあってスタッフも多い。さらに幅の広い勉強ができました」

”うわぁ!今度は魚介系ですか。神戸は魚がうまいところでもありますしね”

「そう。それから縁あって次は西宮のフレンチレストランへ。毎晩1万5千円のディナーがばんばんと出るような高級店です。こちらは営業時間が長かったこともあり2交代制でしたし、スタッフの数も多かったんです。だから給料や休みももらえたので旅に出ることもできました」

”どこへ旅に行かれたんですか?”

「香港やバリなどへ。近場のアジア方面ばかりですね。これもまたツアーで一人旅ではなかったですけど、向こうでは自由行動なのでいろんな料理を体験することができました」

”旅を通して刺激と覚醒を繰り返しながら、着々と一流料理人への階段も上っていってますね”

本山さんは1966年生まれ。早生まれ組として僕と同級となります。今はちょっと様子が違うかもしれませんが、当時の料理人というものは職場を点々とすることが多くありました。

その目的は、自分のスキルの向上だけでなく、場合によっては自分が勤める店の同系列店へのヘルプだったり、自分が師事する人の転属に同行したり、また引き抜かれてチーフとして働く、なんてこともよくありました。

料理人は個人技の世界であると同時に、縦横の人間関係の礼節も人一倍大切にする業種、でした。ちょっと特殊な、そう、芸人や役者の世界とよく似ているかもしれませんね。

僕などは鄙びた裏町の大衆料理店の育ちで、本山さんとは次元が違いますが、そのことはよく知っているつもりです。

”ところで、そのときの本山さんはずっと西洋料理一筋ですよね。『パレルモ』には世界各国の料理が並び、過去に195カ国の料理イベントまでされています。ヨーロッパ以外の料理があるということはそちらにも影響を受けた過去があるわけですよね?”

「ええ、これがですね、自分でも驚きなんですがまったく想像しない世界が開けていくんです。本当に人生って何が起こるかわかりませんね」

”え、なんなんですか、その西宮の高級レストランの後に何か起こるんですか!?”

「はい、実はそのあと愛知県へ行くのです」

本山さんの人生は旅のよう。本当、行動力のある人の話は面白くてたまりません!

つづく

『Palermo(パレルモ)』