『十三トリスバー』2代目店主 江川栄治(中編)


「夢を見るところ、酒を味わうところ〜その2」

前編では、18年前に『十三トリスバー』で飲んだ生ビールが美味しくて涙した話を書きましたが、その美味しさの理由を少し。

もちろん味もありますが、それ以上に「安心感」があったから、というのが私見。放っておかれるでも、干渉されるでもなく、ただそっと迎え入れられていることが実に心地よかったのです。

その安心感から、僕は個人的な過去をいろいろと思い出し、つい涙をこぼしたのでした。

生ビールにはいろんな管理があることを頭ではわかっていたつもりです。こう見えても一応は元バーテンダーの端くれですから。でも正直に言うと、それは客の気分を左右するほど決定的なものではない、と思っていました。

もちろん、『十三トリスバー』がきっちりとされていたことは間違いないのですが、それでも酒の味はどこで飲んでもそれほど変わらないと、心の奥底ではそんな風に。

それで今日、僕は江川さんに「安心感を作り出すための鍵はどこにあるのか」などという質問の仕方をしたのです。

江川さんはのご返答は「ビールは赤ちゃんの世話のようなもん」。僕の思いを否定も肯定もせず、ただそう言い放って、サーバーの前でなにやら始めました。

カツッ。素早く2つの乾いたコップをとりだし、1つはそのままカウンターの上に、そしてもう1つを水で洗います。蛇口をひねってじゃばじゃばじゃばじゃば・・・・。

で、ちゃっちゃっと水気を切り、今度は中に氷と少しの水を入れます。しばらく経ち、氷水を捨て、再度しっかりと水気を切ってから中にビールを注ぎ、もう1つのコップにも注ぎます。これらをカウンターに並べて江川さんが言います。

「はい、出来上がり!コップの中、どういうふうに見える?」

”ええっと〜、1つは泡がじゃんじゃんと上っています。でも、もう1つはまったく泡が上ってない・・・・・静かな黄金色の液体といった感じです!”

「そう、これは泡というよりかは気泡。乾いていたほうのコップは1秒間に30個くらいの気泡が上がってるでしょ。でも、黄金色のんは上からクリーム状の泡が蓋をしたまま静か。3分もすればもっとはっきりとわかるはずやからちょっと置いてみよう」

乾いていたものと、氷水で冷やしてから水気を切ったもの。ちょっとしたことですが、これが想像以上に大きな差を生むのでした。2、3分が過ぎ、「はい、今度はどうなった?」

”ええ、乾いているほうは気泡が立ち上がり続けていて、上の泡の量がかなり減ってます。で、黄金色のは今なお気泡が立たずに、上の泡もまだそれほど減ってません”

「うん、これは冷やすというよりも、コップの中を洗浄したわけやね。もう1つのコップも綺麗に洗ってるんやけど、一度布で拭いたりしてるから目には見えない埃みたいなんがついてる。で、そこに気泡ができて、それが抵抗となってまた気泡が立つ。

ビールって自分の身体で泡を出してるんですよ。だから、気泡が立つということはそれだけへたっている証拠。言うてみたら赤ちゃんが泣きじゃくるようなもんで。せやから泣いてないほう(黄金色)は、ちょっと泡が減ったけど中身はまだ元気!」

コップの手入れの方法など、各ビールメーカーが丁寧に啓蒙し続けてきていることですが、江川さんの話はとてもリアリティがあるし、ご自身の言葉で伝えてくれるのでとてもわかりやすくて面白いです。「ほな、味見して!」。

するとこれが驚くことに、2つはまるで別物のように違う味だったのです。黄金色のほうはクリーミーで甘みさえ感じ、ホップでしょうか、香ばしくてまろやかな味わい。で、乾いていたほうはとげとげしい苦味があり、えぐい。

「ビールは気が抜けるとその分だけ苦くなってまずくなる。だからそんなときは、原因を探らなあかんけどまたたいへん。サーバーかホースの状態か、ガス圧か、注ぎ方か、グラスの状態か、どこなんやろってね、ほんま赤ちゃんの世話みたいなもんですよ。

で、その時々でいろいろしたらなあかんかったり、せんでよかったりすることが違ってくる。とりあえず今は、状態が違う二つのコップでやって見せたけど」

なんだか僕の中にあった「酒の隠し味=雰囲気」という思いがふんわりと宙に浮いたような感じになってきました。こうして飲み比べてみるとあまりにも差が明らかです。

”そうか、わかったようでいて、実はぜんぜんわかっていなかったんだ。グラスの状態だけでも、こんなに味が違ってくるとは・・・・まったく驚きです”

ますます興味が沸いた僕は、今度はあえて営業時間に伺いました。

今日の江川さんは白いシャツに蝶ネクタイのユニフォーム姿。さっそく生ビールを注文。すると前と同様に江川さんはグラスの中に氷を入れそのまま放置。しばらくがたち、いよいよ注入ですが、ここからは目にも留まらぬスピードでした。

以降を倍速で読んでください。氷を捨て、左手でグラスを持ち、水気を切り、きゅっと身体をサーバー側にひねり、右手でサーバーのコックを内側に引き、その瞬間にビールが出るのですが約0.5秒後にグラスを下に。”なななんだ!今のタイムラグは?!”

グラスに45度の角度でビールが注がれ、7、8割ほどまで入ったところで垂直に。その直後右手で持っていたコックを戻し、はい、ここから通常スピードで。今度はコックを外側へ押し、ゆったりとクリーミーな泡を載せていきます。

で、どこまで載せるのかと思って見ていると、そのまま泡が溢れるところまで行き、コックを戻しました。グラスから溢れた泡は、下においてある小さな皿で受けています。そしてひと言。

「べちょべちょにしーたいわけじゃないんやで」

”すすす、すみません!第一話ののっけから「ビールでべとべとになったグラス」などと不細工な表現をしてしまいました!よくわかっていない僕をお許しください!”

この泡の理由を伺えば「細かい泡を入れることで、粗い泡を押し出してる」と。

が、またもや口をポカーンとあけている僕に、しょうがないヤツだな、と思ったかどうかはわかりませんが、営業中にもかかわらず江川さんは、この前と同じように2つの小さなコップを使って説明してくださいました。

「はい、これを見て!細かい泡は粗い泡よりも下へ行きよるでしょ。注いでできるのが粗くて、サーバーで作る泡は細かい。粗い泡はすぐに消えてしまうからね」

コップを見ると、確かに下部は細かく、上部に粗い泡が、くっきりと分かれています。ビールサーバーのコックは引くとビールが出てきて、押すとクリーム状の泡が出る仕組みになっています。これが細かい泡の出所です。

こうして、ちゃんと世話をして丁寧に入れられたビールの場合、グラスの内側に泡の跡が輪になって残るのですが、これを「エンジェルリング」と呼ぶのだそうな。

”ところで、先ほど0.5秒ほどしてからグラスにビールを注いだ理由はなんですか”

「時によって変わるから一概には言えへんけど、サーバーの先にビール泡がちょっとだけ残っていて、そいつが泡を呼ぶんですよ。泡が立つというのはそれだけビールの力が抜けるということ。だから少しでも泡を立てずに注いでやらなアカンのです」

サーバー前で見ていると、確かに1杯ずつ微妙にタイミングが違います。注いでから少し置いたり、置かなかったり。泡を泡で溢れさせたり、それほどでなかったり、ぜんぶ少しずつ違う。

日本のメーカーが提供しているマニュアルだけでもなかなか手間がかかるのに、江川さんの場合は、それに加えてご自身ならではのタッチがいくつも隠されているようです。

それは積年の経験の中で身に着けてきたもので、江川さんならではの、つまり『十三トリスバー』だけの、決して言葉では表現できない世界。

「ビールって生きもんやから、飲み頃、旬というもんがあるんですよ。人間と同じ。ウイスキーよりも注ぐのが難しい。たぶん酒の中で一番難しいかもしれん。

ただ、やっぱり、こうやって飲み比べなわからんくらいのことやから、お客さんが実際にどう感じてるかはわかりません。でも、僕らはこういう細かいことをやり続けてるんですわ」

こうしてしっかりとわかって飲むと、江川さんの職人たる部分とビールの繊細さが手に取るように伝わってきます。

「か、言うて、すべてのビールが同じではない。国、種類によっていろいろやし、その地域の伝統や文化もあるから、全部違ってむちゃ多様。そこがまた深くて面白いねん」

1国の、1メーカーの、1ビールでこんなにも深いわけですから、世界を見渡すとそれはもう終わりのない世界。それに、そもそも『十三トリスバー』は無数の酒を常備するショットバーですから、生ビールはそれこそ1メニューにしか過ぎません。

しかし、生ビールを知ることで、その他の酒の奥深さも想像できます。それに何よりも、江川さんの中に詰め込まれた酒の膨大な知識やスキルの深さに驚嘆します。

「僕はね、プライベートでは醸造酒が大好き。中でもビールは欠かさず35年。家に帰ったらまずビール!メーカーに限らず、新しいのんが出たらまず買うよ。ま、家ではさすがに缶やけど。同じリサイクルできるんやったら瓶より軽いし(笑)。

泡?瓶や缶でも上手に泡を作る方法はあんねんけど、サーバーとは違って自分の力で泡を作らないかん定めがあるからどうしてもへたるんは早い。

でもなんであれ、毎回、味の感じ方は違うんですよ。同じビールでも季節やその時の体調によって変わる。満員電車で疲れたとか、今日は涼しくて気持ちええとか。シンプルに高価な酒はうまいやろうし。気候、体調、心の状態もある。

で、悲しいことがあったら、やっぱり重たい味がする。一方、カワムラさんがベストセラーなんぞ出した時に飲む酒なんて、どれを飲んでもむちゃ美味しいと思うで!うん、やっぱし、嬉しい時に飲む酒が一番美味しいね・・・」

にわかでは到底理解し難い、プロならではの、また江川さんだけのテクニックがあるのは事実。でも、それとは別に様々な環境やその時の自分の体調や心理状態によっても感じ方が大きく変わるのも事実。

決して自己主張をすることはありませんが、職人たる部分には妥協がない江川さん。結局18年前に僕が涙したあのビールの理由に結論はありませんでした。

『十三トリスバー』江川さんは粋だなぁ。やっぱりすごい。

つづく

『十三トリスバー』