堺刃物『芦刃物製作所』 芦 博志(特別編)





「銀香World」

包丁作りについては製作所で、堺の町についてはそば屋で。そして今回の特別編は、製作所の2階の奥の間でうかがいました。

部屋中に、包丁とは別次元の鉄の物体がところ狭しと並んでいました。何体もの僧侶、刃が真横から刺さったガラスの花瓶、植物を連想させる様々な形のランプ。他の抽象的なものは、どれも曲線が印象的なものばかり。

”この部屋には包丁職人が半分、もう半分はアーティストの気配が満ち溢れていますね”

「そうでしょ。アートをやりだしたのは50歳を過ぎてからやけど、実はずっと昔から興味はあったんですよ。でも、なかなか忙しいし、きっかけがなかったもんやから」

”踏み込んだきっかけはなんだったんですか?”

「ひとりのイスラエル人の存在が大きいです。彼はロシア系のユダヤ人で名をアルノン・カートマゾフといいます。最初は留学で来日して、やがて京都北山に工房を構えて鍛冶のアート活動をしていたんですね。

で、日本中のあちこちの鍛冶屋をめぐって最終的にうちに飛び込んできたんですよ。なんだか最初から他人とは思えない感じでしたね。すぐに打ち解けて、僕は彼からアート作りを学び、逆に彼は僕から刃物作りを学ぶ仲に。

また、アルノンの奥さんはアメリカ人で、京都外大の英語の教師を勤めておられたこともあって日本語はペラペラ。気がつけば家族のようなつきあいになっていましたよ。今はオレゴン州のポートランドで120坪の工房を構えてます」

やがてアルノンさんの師匠、ウリ・ホフィさんのところへも。イスラエルでは知らぬ者はいないといわれるほどの著名な方だそうです。

「もう、最高に素晴らしい方でした。ホフィさんはイスラエルで鍛冶の先生をしてらっしゃってね。そう、向こうには鍛冶学校があるんです。

で、そのすぐ隣にホフィさんの工房があって、そこでお互いの技術を見せ合いました。彼の技術の奥深さと幅の広さには圧倒されましたね。日本は木と紙の文化、ヨーロッパは鉄と石の文化じゃないですか。だから鉄の用途や発想が物凄く広いんですよね。

ドアノブや門扉の装飾、柵や手すり、ランプ台、テーブル、イス・・・・もう日本とは比べ物にならないくらい鉄が生活の中に入り込んでいる。

同じように赤らめている見慣れた鉄が、ここまで形を変えることができるのか、しかも見たことのないような不思議な形に、というシーンが数え切れないほどありました」

芦さんはホフィさんについて無我夢中で10日間も鉄を打ち続けたそうです。

堺では考えられないほどの面積の広さ、静けさ、の中でとても集中できたとも。さらにホフィさんもまた50歳を超えて鉄のアートの世界に入ったことで、何かと分かち合えることが多かったともおっしゃいます。

「実はヨーロッパ全体の鍛冶業界もまた徒弟制度であったけど、やはり仕事が少なくなったことで、学校というシステムでなければやっていけない状態にあるようです」

”鍛冶の世界がどんどん斜陽化しているのは世界レベルでの話なんですね。ただ、学校という形が実在していることが凄いです。少なくとも日本よりも先進的で、建設的な方向にあるように思えます。

芦さんのお話を聞いていると、日本の包丁の世界がとても狭い世界にも思えてきました”

「彼らとの出会いは僕の人生を大きく変えました。技術の深さや幅だけでなく、彼らの考え方や生き方という点で。鍛冶とはなにも刃物を作るだけではない。ものすごい可能性を秘めている。用途も技術も多様。行ってみて、それがよくわかりましたよ!

イスラエルでの時間はあまりにも充実したものでした。今はもうホフィさんもご年配だからあまり身体は動かないようだけど、僕の母校へ招いて講演会を開催させていただいたりもしました」

今回の取材の中で、芦さんの目が最も子供のような輝きを見せた瞬間でした。

アーティスト芦さんの翼はアメリカへも羽ばたいています。

目的は包丁の講習会やロスの得意先との交流。ほか、様々なアーティストたちとの交流など。

「ロスに”銀香”を取り扱ってくれてる包丁ショップがありましてね。そこで、うちの包丁を愛用してくださってるコックさんなどが集まって、僕がいろんな話をしたり研いでお見せしたりしたんです。

そのときはハリウッドの映画制作者たちがライフワークで作るドキュメンタリー映画にも協力したり、とても楽しく過ごさせてもらいました」

芦さんはアルバムを引っ張り出してきて、そのときの写真を見せてくれました。そこには大勢の人と語らい、活き活きとした表情の芦さんが写っていました。

サウナのような熱気ムンムンの狭い工場で、寡黙に作業をしているときの芦さんとはまったくの別人です。

「アメリカは豪快で素晴らしいですよ、本当!トレーラーの鍛冶講習会なんてものがあるのも凄いし、そこには必ず子供が入ってることにも驚かされる!将来プロになりたい子供がたくさんいるんですね。

組合だってたくさんあるし、2年に1回「ABANA」という鍛冶の大会まであるんです。世界中から参加してくるんですよ。で、向こうにはプロのみならず、趣味で鍛冶をやる者も数多くいます。

本当は日本の子供にも体験させてあげると喜ぶはずなんですよ。実際にうちの製作所でもやったことがあるんです。みんな楽しみながらやってました。でもなかなかね……。日本ではなんでもかんでも”危ない”と言われて止められてしまいます」

写真を見ながら、芦さんの嬉しそうな張りのある声を聞いていると、なんだかこちらまで楽しくなってきました。

「現在、アメリカでは3社と取引しています。彼らこそ職人気質が高くて面白い。絶対に現場に来るんですよ、ええ、うちのあの狭い製作所まで。とことん見て、とことん話す。そうやってお互いわかりあってから取引が決定していくんです。

造った人の顔が見えないと嫌なんでしょうね。中には全国各地を廻って最終的に堺のうちに決めてくれて、数日間泊まりこんで自分でも作ってみたり。そりゃとても熱心です。今でも勉強のためといって1年に一度やってくる人もいます!」

お互いが行ったり来たりを繰り返しながら、交流は深まり、信頼関係が築かれていく。そのたびに芦さんは堺市のパンフレットも配ってきたとおっしゃいます。

堺の名はすでに世界に轟いているとは思いますが、芦さんのこういう地道な積み重ねもきっと一助になっていることと思います。

そして最近は、海外に興味すら示さなかった堺の職人の中で、芦さんのように海を渡り、触れ合っていこうとする職人が増えつつあるといいます。

「芦刃物製作所」は堺に埋没する職人工房の1軒でありながら、芦博志が打ち出す「銀香」は、海の向こう側との架け橋役、いわば燈台のような存在ですね。

さて、アーティスト芦さんの話はますます面白くて尽きることがありません。締めくくりとして、これほどにも多忙な中でも、しっかりとご自分の人生を見添え、実行に移してきている芦さんの原動力について伺いました。

「う〜ん、僕は子供らにも言うんです。お金なんて残さへんでって。人は何も持たずに生れてきて、何も持たずに死んでいくわけやから。だからこの製作所を無理して継ぐ必要なんてない。継ぎたい人が継いだらいいんですわ。そもそも会社なんてのは僕個人の所有物じゃないから。

そんなことよりも、やっぱりどれだけ感動的なことができるかやと思うんです。僕は右手を一度失いかけました。そして52歳の時、家内が48歳でこの世を去りました。家内には人生の目標があって、それに向かっている最中のことでした。とても悔しかったろうに……。

人間はたかだか数十年やけど、こうやって生かされてるわけですから、絶対に無駄にしたらアカン。若い人にも言っておきたいのは表面だけの楽しさじゃだめ。しんどい思いをすることで、気持ちをクリアにしないと。その道を越えないと生かされている命の喜びはわからない。もったいないことをしてはいけない」

このたびの取材を終えて、芦さんから最も強く感じ取ったキーワードは「自分を持つこと」。そして「育てること」。これは誰かがくれるものではなく、つまり競い合って得るものではないということ。

自分の人生だから当たり前ですけど、すべて「自分」次第です。でも、なんとなく時代は、不幸の原因を自分以外に探す傾向が強くなりつつあるように感じます。モノや情報が豊かになるほどに。

芦さんは何気ない会話の中でこんなこともおっしゃってました。
「モノづくりには、できるだけ情報はないほうがいい」。これは言い換えれば「必要な情報さえあればいい」。

本物の情報や素材が、本当に必要な人とつながることを祈って。

おわり

『芦刃物製作所』