福岡・久留米で闘病中の母が旅立ちました。最期の1週間を記します。
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私と丁稚ケイが久留米に着いたのは木曜日だった。
スーツケースを転がして、入院中の母の病室に直行した。
羽田空港で買ったカニ寿司3カン、千疋屋のフルーツ杏仁豆腐を携えて。
一緒に暮らす姉はその週の火曜日、医師から緩和ケアを勧められていた。
「もう痛みを除き、穏やかに過ごすことを優先したほうが…」。
難しいがんと分かって2年だった。
電話越しに姉は続けた。母の人生の残り時間について訊いたらしい。
「年内、って言われた」。
「えーっ、そんなに早いん」。間抜けな声を挙げた。
「まだお母さんに言われなよ」。口止めされた。これで、いいんだろうか。
言うのも隠すのもためらわれた。とにかく笑顔で接しよう。
「足が痛いんよ」「手もおかしい」「どうなるんかなぁ」。
母は不安そうに繰り返した。
出張中の姉が作ったおでんを甥っ子ユウ、リョウ、丁稚ケイと食べた。
金曜日、夕方に病院へ。
姉宅から歩いて片道40分、街路樹のイチョウが黄色に染まっていた。
途中で母もお気に入りのジェラート店「KURUME・ジェラート」に寄ろう。どの味がいいか訊こうと電話したが出なかった。
食べないかも…と思い、素通りする。
病室で母は困ったような顔をしていた。「何かおかしい」。
緩和ケアのことは、担当の先生がサラッと告げてくれたらしい。
母は説明のチラシを見せた。「こんなの渡された」。あっさりした口調だった。
受けるともイヤとも言わなかった。
土曜日、私の誕生日だった。
お手製の蒸し餃子を保温弁当箱に入れて持って行った。
「おいしい」。そう言って3つ、お箸で食べた。ホッとした。
「私、きょう、誕生日です」。そう言った。あっ、という顔をしていた。
「おめでとう」。
忘れていたのかな…。でもウトウトしていることが多く、何日なのか意識していないようだったから仕方ないか。
病室を出て焼き鳥「鉄砲」へ。姉たちにダルム(もつ焼き)でお祝いしてもらった。
日曜日、姉たちと一緒に見舞う。
夜中に作ったリンゴのヴァニラ煮を渡した。
母の顔つきが険しくなったような。
とにかく母に笑ってもらいたい。「大丈夫、大丈夫」。何度も繰り返した。
月曜日、訪ねたら顔を洗ってもらっていた。
気持ちよさそうにしていた。ホッとする。
緩和ケアの先生から「好きな音楽をかけてもいいですよ」「クリスマスか正月におうちに帰ってみては」とアドバイスされる。
目標になっていいかも。できれば岡山へ帰してあげたい。無理かな。やさしい先生に尋ねる。「受け入れがあればOK」とのことだった。やれるかも。
でも律儀に薬を飲んでいる母は、むしろ不安がるかな…。
火曜日、病院近くの電気店で小さなCDラジカセを買う。
CDも買った。この日発売のユーミンのベスト盤、コンサートに行ったことがある松山千春…。4、5枚を買って渡した。
ユズ大根を差し入れた。「何これ?漬け物?」そう言いながらおいしそうに食べていた。
おから入りロシアンクッキーも食べてくれたようだった。
「白いの、おいしかったよ」。そう言ってカラのタッパーを返してきた。
病院食はおかゆだけ口にしているようだった。
「何が食べたい?」そう訊いても思いつかないようだった。
料理本を2冊、買った。載っている料理の写真を見たら食欲がわくかも。そう思った。
ブリ大根、鶏そぼろ、鯛めし、岡山育ちだからカキの時雨煮…。
「言ってくれたら何でも作るよー」。そう言って渡そうとした。
母は受け取らなかった。「あんたの本じゃねん?ならいらん」。
7度目の入院は2カ月を越え、荷物は増えていた。確かに置き場もなかった。
☆ユズ大根(長さ5㎝、80本)
大根 1/2本(500~600g)、米酢 50g、砂糖 50g、塩 大さじ1/2、だし昆布 10㎝、ユズ 1個
1. 大根は皮をむいて幅1㎝、長さ5㎝ほどの拍子木切りにする。
2.ファスナー付き袋(Mサイズ)に米酢、砂糖、塩、だし昆布を入れる。大根を入れ、ユズ皮を削り入れる。果汁も絞って入れる。
3.袋を閉めてから5〜6回、さかさまにして砂糖、塩を溶かす。
4.最初は水分が少なくて浸からないが、大根から水分が出るので大丈夫。時々上下にひっくり返す。
5.3時間以上置いてどうぞ。