火曜夜、姉に提案した。
甥っ子ユウとリョウを母の見舞いに連れて行きたい。医師には「あと1、2カ月」と言われた。もっと会わせたい。
放課後は習い事や学童保育へ行く彼らが平日、病室を訪ねることは少なかった。
姉は言った。「急に毎日、来たら、お母さんヘンに思うわ」。そうかなぁ。
「徐々に、やっていくから」。徐々に、なんていう時間があるのだろうか。
私とケイだけなら姉宅から病院まで片道40分、歩いている。
でも小1の2人も連れて夕方、バス停まで歩くのもタクシーで行くのも大変そうだった。
水曜日正午、母のいる病院へ。
鶏レバーのショウガ煮を作った。
姉宅の台所でタッパーに詰めようとして止めた。味気ない。
サクラ柄のピンクの小鉢を引っ張り出す。3切れ入れて、千切りショウガを飾った。食べてもらえるだろうか。
いつもの609号室へ向かった。
入り口の名札に母の名前はなかった。あれ?ベッドが消えていた。どこだろう。
ナースステーションに近い「回復室」に移っている最中だった。
いつもはない心電図が目に入った。ドキッとする。
看護師さんが言った。「驚かせてごめんなさい、ちょっと血圧がね・・・」。
母が目を開けた。「来とったんかな。朝から、いとうて(=痛くて)」と言った。
ちょうど昼食が運ばれてきた。
「おかゆだけでも食べたら?一緒に食べて」。鶏レバーの小鉢を一応、お盆にのせた。
おかゆだけ少し口にしたが、すぐやめた。
「アイスクリームなら入るかなぁ」。
「ほんなら買って来る」。院内にあるコンビニへ向かう。
カップ入りのヴァニラアイスを買って引き返す。4、5さじ口に運んだ。
「あんた急ぐんじゃろ、もうええよ」。私を帰そうとした。
母を見舞った後、いつも生後1歳5カ月のケイを一時保育に託していたからだった。
「もうキャンセルした。ずっといる」。そう言った。
「ここ、どこ?」「回復室、前もいたところ」。
そんな会話をしていたら以前、同じ病室だったらしい女性が声をかけてきた。
「調子どんな? 私は明日、退院すると」。
「どんなって・・・」。母は黙ったままだった。
丁稚ケイがじっとできず、騒ぎ始めた。
母は「寝ている人もいるから迷惑がかかる」と言った。ちょっと席を外そう。
院内にあるコーヒーショップに退避する。アイスソイラテを飲み干した。
午後1時半、30分足らずで戻る。
母はまたいなくなっていた。
今度はICU(集中治療室)に移っていた。
「個室だから(騒いでも)大丈夫ですから」。
看護師さんに言われた。母は「でも隣に(患者さんが)おるんじゃないの?」と気にしていた。
気を紛らわせようと話をする。看護師さんが母に訊いた。「若いころ何してたとですか?」
「デパガしてたんですよ」。私が答える。兵庫・姫路の老舗百貨店に結婚する前、勤めていたと聞いていた。
母は自分で言った。「会社の経理をしていたの。長いこと」。
そうだった。30年以上、勤めて父亡きあと、女手ひとつで私たち姉妹を育てたのだった。
「そうか、それで、きちんとされとるとですね」。看護師さんが返してくれた。
午後1時半、事態に気付く。
当直の医師に「きょう、明日がヤマ」と言われる。「親類、呼んだほうがいいってことですか」。訊いた。「そうですね」。
面接室を出てすぐ岡山の叔母、姉に電話した。
午後3時半、姉が双子を伴ってやってきた。
心臓マッサージなどの延命措置はしないと決める。
甥っ子ユウがCDラジカセの電源を入れた。「やさしさに包まれたなら」「守ってあげたい」・・・なつかしいユーミンの歌、思わず口ずさんだ。
担当の看護師さんが帰る時間になった。
「きょう、髪が洗えんかったとですね。ごめんなさいね。明日、洗いましょうね」。
「お願いします」。母は目をつぶったまま言った。
午後7時半、叔母たちが岡山から到着した。
母はびっくりしたようだった。「起こして、起こして」。ベッドを上げるように求めた。
「みんなが来とるということは、もうダメなんかなぁ」。
難しいがんを告げられて2年、母から聞く初めての弱音だった。
叔母が泣き笑いになった。
「何ゆうとん、チカチャンが慌てて、電話してきただけじゃが」。
母はお構いなしで続けた。「さようなら」。
「カヨチャン、ありがとう」。同居していた姉に4回ほど繰り返した。
「チカチャン、ありがとう」。私にも1回、言った。
「痛い、もうええ」。長いこと言い続けた気がする。
木曜午前3時、ようやく落ち着いた。
見守る私たちも横になった。ベッドにすがりついたまま、丁稚ケイに母の左手を握らせる。
母のほおに口を寄せる。何度も何度もキスをした。
そのまま午前4時、母は私たちをおいて1人だけ、そっと旅立った。
「来とったんかな」。そう言って起き出しそうなのに。
「楽になったんじゃなあ」「もう苦しまんでええんじゃなあ」。叔母たちと抱き合う。7人で涙ぐんだ。
明日は髪、洗うって言っとったのに。おかしいなぁ。明日もあさっても、お見舞いに来るつもりだったのに。
「ごめんね」。何もできなかったこと、しなかったこと・・・謝り続けた。