開いたー。カギを壊したスーツケースから明け方、やっとおむつが取り出せた。ここは森の中、買いにも行けない。真っ先に困るところだった。
ちょっと眠ろう。うつらうつら考える。メープルシロップの海にダイブしたくて来て、あのまま強制送還というのもネタとしてはアリだったな。でもお財布には痛すぎる。よかったよかった。
メープル小屋「シュクルリー・ド・ラ・モンターニュ」の山小屋はメゾネットだった。急な階段を上がる。素敵なダブルベッドだな。丁稚ケイが転がり落ちそうで使わず、1階にあった柵つきのシングルベッドに体を寄せ合った。氷点下4℃。
ぬかるむ道を抱っこひも姿で猛ダッシュ。レストランのある母屋へ。ふーっ。重さ9キロの人間カイロをギュッと抱きしめる。
頼もーう、旅の者ですがー。朝食お願いしまーす。
到着したのは日曜日の午後だった。ここは渋谷かと思う大混雑だったが、朝はさすがに森の静けさが。
訪問者のうち3分の2はケベック州の人たちだそう。
オーナーのピエールが朝食を運んでくれた。真っ白いヒゲが立派な65歳に訊かれた。「パンケーキにする?それともミソスープ?」ガクッ。彼は25回以上も来日しているとか。もちろんパンケーキをお願いします。
これでもか、とシロップをたっぷり注ぐ。すっきりまっすぐなメープルの恵み。素朴過ぎて笑っちゃうような家庭の味が、思わず頭を垂れるうまさだった。強制送還にならず来てよかった。ピエールにレシピを訊く。「卵、小麦粉、砂糖、塩ひとつまみ」とのこと。
熱々のメープル・シロップを雪の上に垂らしてアメにする「メープル・トフィー」はケベックの春の風物詩。このためにやってきたのだ、日本から。やりたいやりたい。
とはいえ雪はもうなし。砂糖小屋のシモンが110℃に煮詰めたシロップを雪に見立てた氷の上に垂らしてくれた。
垂らしたシロップを木の棒に巻きつける。早く食べたい。大急ぎですくいとる。「もう少し固めたほうがいいよ」とシモンが声をかけてくれた。なるほど、確かに。ほんの少しのシャリシャリ氷に、やわらかいメープルがからむ。
いくらでも食べられそう。大人も子どももいつまでも棒をくわえていたのが分かるわ。立て続けに3本も作っていただいた。
メープル小屋の大食堂で生演奏。
「シュクルリー・ド・ラ・モンターニュ」には午前11時を過ぎると続々、お客さんが押し寄せる。大食堂は650人も収容可能とか。演奏する人、踊る人、料理を運ぶ人…大騒ぎ。
ケベック伝統の「タルト・オ・シュクル(砂糖のタルト)」はしっかりとろーり甘い。ブラウンシュガーに粉、クリーム、バター入り。オーナーの息子ステファンのおばあちゃんのレシピとか。
あるじピエールがスプレーを手にしている。「メープルの香水を作っているんだよ」。へーえ。手首にシュッ、ひと吹きしてくれた。
あ、確かに森の恵みの香り。思わずなめたくなる。そう言うと笑われた。香水の似合う女には程遠い。
写真右はメープルシロップのご先祖さま。昔は固めて持ち運んでいた。
香水の街・南仏グラースの香水商シャンテルがメープル小屋「シュクルリー・ド・ラ・モンターニュ」を訪ねたのは「まったく偶然よ」。モントリオール留学中の息子と一緒に遊びに来て、あるじピエールと意気投合してから1年足らず。メープル香水は7月、お披露目されるとか。
「チカコもぜひグラースに来て」。熱心に誘ってくれた。ハイ、本気にしますよ、行きますわよ。