「僕は毎朝、ナンマシーン」
今回は日本人では極めて珍しいタンドール職人、吉田光寛さんの仕事ぶりについて。
店は、タンドールから始まり、タンドールで終わります。このインドの壺窯が『SOL』の命。現在、吉田さんが店に入るのは朝の9時頃。仕事がこなれてきたからこの時間とのことですが、開業して3,4年までは6時頃に入っていたといいます。
朝、まずやるのはタンドールの温め。炭の窯ですから、スイッチを入れるとか、ガスのコックをひねってOKとか、そういう世界じゃありません。
昨夜まで使っていた炭をいったん取り出し、火おこし、といわれる手鍋のようなものにいれて、隣のガスコンロの上に載せて加熱します。
「昨日まで使っていた炭というのがこれまたよく燃えるんです。だから、ほら、この通り。もうこんなに燃えてるでしょう?これを今日の火種とするんです」
見れば炭色から赤に染まり、火柱が立ち上がりそうなほど熱気を感じます。この間にタンドールの底にたまった昨日の灰を捨てます。これは下部についている小さな窓から。酸素を供給する穴でもありますが、このように灰を出す出口でもあります。
ところで店を閉めるときは、タンドールの火はどうするのでしょうか?
「いや、蓋をするだけですよ。火鉢と同じです」
火鉢といえばその昔、お婆ちゃんの家などで見たことがあります。炭とたっぷりの灰がはいったあの大きな陶器。若い方はご存じないかもしれませんね。
炭を囲むようにして五徳(鉄製の台)を置き、その上にヤカン?鉄瓶?を載せて湯を沸かしたり、網を載せて餅を焼いたり。炭はなにかと調節しなければなりませんので、そんなときは重たくて長い火箸を使います。
夜になると炭の上に灰をたっぷりとかける。そしてお風呂に入ってそのまま就眠。世の中はスイッチひとつで動く、などと信じつつある世代の僕には不安で仕方がありません。
”お婆ちゃん、火鉢に水はかけないの?火は水で消えるんだよ。火事になるよ”
「炭に水なんぞかけたら部屋の中が灰で真っ白になっちゃうよ。危ないから灰をかけるんだ」 ”なんで!なんで灰が飛ぶの!?” 「・・・・・・・・・・・・・・・・」
僕の親もそうでしたが、お爺さんやお婆さんもいちいち子供の質問に応えるような甘い人ではありませんでした。その上、火鉢なんてものは日に日に見なくなる。だから、この謎はずっと長いあいだ心の中に残り、解けることなく、今日に至ったわけです。
それが、47歳になって、このたび吉田さんのお話を聞いて、ようやく、ようやく腑に落ちたのであります!(お恥ずかし〜)
「ほら、炭って酸素がないと燃えませんよね。だから消すときは灰をどっさりと上からかけて、さらに蓋をして、酸素を遮断するんです。窯はほのかに温かいままですが、これで火は完全に消えます。間違っても水なんかかけたらダメですよ。弾けてしまい店の中が灰だらけになってしまいますから。鹿児島の桜島の灰も同じじゃないですか。ええ、つまり、この道具は炭と空気が燃料なんです。なので、言い換えればタンドールは危ない。ちゃんと酸素を取り込んでおかないと一酸化炭素中毒になります」
そして炭にはいろいろな種類があるともいいます。
「うちは基本的にオガ炭ってやつを使ってます。たまに火の勢いをつけたいときはよく燃える黒炭を使うこともありますけど。・・・・・・う〜ん、炭は深いですよ、本当」
というわけで少し調べてみますと、広くは、白炭、黒炭、成形木炭、竹炭などがあり、料理でよく使われるのは先述の3つのようです。白炭は何かと扱いが難しいようですが、長持ちするし火が安定しており、雑味もないために高級料理によく使われるとか。有名な備長炭はこれに含まれます。
一方の黒炭は白炭よりも扱いが簡単で、火もつけやすいし燃焼温度も高い。バーベキューなどで使われるのはこちらのようです。ただ、一酸化炭素を多く排出することと、燃焼時間が短いので注意が必要なのと、安定感に欠けるようです。
そして成形木炭ですが、これは匂いも少なく、黒炭のように炭がはぜたりしない。さらに高出力でなかなか持続性も高いということで、現在、国内の焼肉店などで最も多く使われているようです。SOLが使うオガ炭といわれるものはここに含まれます。
実際、知人の焼肉店に聞いても、同じオガ炭を使っていました。なにやら日本がこの技術を開発したって話です。本当だったら嬉しいことです。
話を厨房へと戻します。こちらのタンドールはテイクアウト用の窓の前にあり、そこにはスダレがかけてあるだけなので空気は無尽蔵。吉田さんが火種となる炭をタンドールの中へ入れていきます。
そして、この炭を大きく円にして広げて置き、中心部に新たな炭を積み上げていきます。ある程度のところまで積んだら、先ほど外側に置いた旧い炭を、新しい炭の合間に散りばめるようにして置いていきます。
「新しい炭の上に火種を置くと、炭はよく燃えます。たまにバーベキューなんかで見かけますが、火種の上に新しい炭を載せていたのではなかなか燃えません。炭って炎じゃなくて熱って感じなんでしょうね。ま、僕もやりながら段々わかってきたことですが」
このようにタンドールの話だけでも尽きることはないですが、朝の仕事としてはあくまで序章。タンドールはいったんこのままにしておき、次はナンの仕込みに取り掛かります。
で、実のところこれが最もしんどい、面倒くさい、重たい、粉まみれ、指の先まで筋肉痛になりそう、などと否定句しか思いつかない仕事です。
吉田さんの場合は少ない日で、小麦粉4キロ。多くて6キロ、といいます。土日など多忙な日は、たまにこれを午後にもやって合計2回ということもあるそうです。言葉では伝わりにくいですか。前者の仕込みに使うボウルは直径50センチほどのもので、後者は60センチオーバー。業務用ボウルの中でも肉厚で重たい最大クラスです。
本日の仕込みは4キロとのこと。中力粉と強力粉が半々、玉子4個、砂糖をざっくりで大さじ10杯程度、塩をヒトツカミ(いわゆる適量ってやつです)。さらに牛乳、ヨーグルト、水、ベーキングパウダーなど、仕上げに油を少々いれます。
これだけ情報化社会などといわれますが、インド料理の真なる情報はなかなか表にでることがなく、いまの日本はまだ本場カレーの追求に躍起になっている時代。インド料理=創作料理といってもいいくらい底も幅も広い世界ですから、カレーもまた一部でしかないというのが、インド料理の面白さかもしれません。
よって、ナンとひと言でいっても無数にあるわけで、先述のレシピは、積み重ねの中で吉田さんが見出した、現段階のもの、としかいいようがありません。日々、理想的なナン作りをしようと、手探りの繰り返しをされているわけですね。
さて、ボウルに入れた材料をまとめます。指を広げて外側からざっくりと混ぜていき、徐々に全体を。少しまとまったら今度は手の平でさらにまとめます。あるところまできたら、今度は拳骨でマッサージするかのように、体重を乗せながら、リズミカルに生地を揉み込んでいきます。
吉田さんは汗だくになり、どんどんと寡黙になっていきます。
「ええ、これをしんどいと思ってしまうと実にしんどくなります。毎日のことですから、何も考えてはいけません、というか、考えられない。ま、無の境地ってやつかな。そう、この時間の僕はナンマシーンになるのです」
そして、ついに言葉が消えました。厨房では、むぎゅむぎゅっと拳で生地をこねる音だけが聞こえてきます。そして10分ほどが経ったでしょうか。今度は生地を両手で高く持ち上げて、そのまんまボウルに叩きつけていきます。パッコーン!パッコーーーン!
これが最終段階。何十回か繰り返したらこれでひと段落。今度は寝かしに入ります。はい、まだ終わったわけではないのですね。暇なら1回。そこそこ忙しそうな日は6キロ仕込。土日などは同じ作業を昼過ぎにもう一度するといいます。いやぁ、本当に大変。
ナンの仕込みにざっと30分。タンドールのほうは、まだまだ温度が足りませんので、少し炭を整えて、蓋を開けたまままた再び放置です。
その後、ライスを炊き、カレーやタンドリーチキンの仕込み、厨房や客席側、店頭、トイレなどの掃除をし、つり銭や伝票、サービスで出す辛いオイルやピクルスなどの用意をしていき、すぐに11時半頃になってしまいました。
タンドールもナンも提供できるまでにはもう少し時間が必要ですが、ここで試食用に小さなナンと牛すじカレーを頂きました。
表面がわずかに狐色。手にすると、さらっとしていて、ちょっと握っただけでしんなりとヘコみます。食べてみると、いつも以上にさっくり、そしてふんわり、中身はしっとり。
いつものようにほのかな甘みとミルクの香りが漂います。早いようでも粉っぽさは殆ど感じられませんでした。
「いままで同じナンはできたことがないといっても過言じゃないです。本当に、どれだけ同じように作っても日々違います。季節やその日の湿度、塩分のわずかな差なんかで変わるんでしょうね。ナンは想像以上にデリケートです」
さらに興味深いことを続けて話してくれます。
「よく、炭の熱で焼くものと思われてますけど、ナンを焼くのは窯の壁なんですよ。つまり、この壁が適温になっているかどうかが問題なんです」
ちなみに壁の温度が足らないとナンは硬くなってしまい、熱すぎると表面が焦げてしまうらしいです。だから営業中は常にちょうどいい温度にするために、火をおこしたり、蓋を調整したりしているわけです。守(もり)をするだけで手が一杯一杯ですね。
12時15分前、吉田さんは先ほど打った生地を1人前ずつ分けていきます。店のバットにお餅のように丸めて並べていくのです。あるところまで出来れば冷蔵庫へ収納。真夏以外は常温でも大丈夫だそうですが、基本的に発酵が進みすぎないほうがいいらしいです。
ふと店頭を見れば、数人のお客さんの姿が見えました。12時からオープンということもあり、すでにお腹を空かせている客もいるようです。オープンと同時に、注文が始まります。「ナンとチキン!」「私はナンと野菜カレー!」「こっちはテイクアウトでナン2枚とチキンと野菜!」
こうして1日が始まります。
カレーは基本的にチキンと野菜の2種類ですが、土日などには、ポークや牛すじ、チキン挽肉のカレーなどが加わることもあります。これだけの仕事をした上に、まだ他のメニューも作るのか!?と吉田さんのタフさには驚かされます。
僕だったらたぶんタンドールの手入れとナンだけで1日の仕事は終えてしまうことでしょう。カレーなんぞは自分で作ってもってこい!と。すると客が怒ってしまう。だから店名は「ナン屋!」、なんてね。ま、冗談はさておいて、それくらい体力と精神力がものをいうわけです。
タンドールとナンはコインの裏表のようなもの。お互いが欠かせない存在だというわけですね。
つづく。