「店が誕生するまで」
今回は、吉田さんがどういう過去を経てタンドール職人に辿りついたかを時系列的にお聞きします。
―1967年、大分県で生れる。小学二年生の時、大阪・石橋に転居。
物心がつくと同時に音楽に興味を持ち、高校からはバンドに明け暮れたといいます。担当はドラム。特にレッドツェッペリンというハードなロックにはまり、そのコピーをよくやったとか。と、これを聞いただけで僕は吉田さんに強い親近感をもってしまいます。
実は僕がやっていたバーの店名P・AGE・BAR(ピーエイジバー1991〜2007)というのは、このレッドツェッペリンのギターリストJimmy Page からとりました。って、僕の話はどうでもいいですか。了解。
とにかく吉田さんはこのレッドツェッペリンのドラム、ジョンボーナムに強い影響を受けたみたいです。骨太で腹の底に響くパワー、飛び上がりそうになるほどの躍動感。それでいながら哀愁も滲んでくる、実に表情豊かな音を放つ名ドラマーです。
吉田さんがナンを打つときにいつも感じるのですが、独特のリズム感と音色があります。そう、まるで音楽のようでもあります。これは僕の癖なのかもしれませんが、昔からその店の音が味と同じくらい骨身に入ってしまいます。そして「いい味」を出す店はやっぱり「いい音、いいリズム」を出している気がします。
仕込みの時は、拳骨でモコモコモコモコ・・・・。仕上げは両手で高く持ち上げて「ダッーン、タッダッーン」とボウルに打ち付ける。そして注文時には「タンッ、タンッ、タッーン!サッサッサッ、タンッ、タンッ、タッーン!」。餅のように丸めておいたナンの生地を、板に叩きつけては手の平で押し広げるようにしていくのです。僕の目には吉田さんのナンと楽器の境界線がわかりません。
-1980年代後半、大学入学。BODYというバンドに参加。
ここでも縁を感じてしまうのですが、BODYというバンドのボーカルをしていたのがコング桑田さんという方で、この方は90年代の初期、ピーエイジバーでも何度かライブをしてくれていました。ひょっとして吉田さんと僕はすでに会っていた可能性もあります。
―1990年代前半、大学を卒業。就職。大阪・淀川区の十三で一人暮らしを始める。
大阪北部の町、茨木市にある企業に就職したそうですが、昼時に社員食堂へ行くたび「あぁ、俺の居場所はこっちじゃなくてあっち(厨房)だった」と何度もそう思ったといいます。やっぱり客席ではなく、舞台側、吉田さんはプレイヤーなんですね。と、そのわりに5年もサラリーマン生活を続けたとも。衝動的ではなく、じっくりと考えて腹で決めてから動く人、という職人気質のようなものがここからも感じ取れます。
―1995年頃、会社を退社。大阪を中心にインディーズバンド活動に専念。
大きな力をもち、ブランド志向が強い企業による展開を一般にメジャー。逆に小さくて非力、ノーブランドによる展開をインディーズ、と音楽業界では活動スタイルのことをそう言われています。
もちろん後者には数え切れないバンドやミュージシャンがいるわけですが、中には音楽家として力があるのにあえてインディーズでやり続けようとする人も多くいるといいます。その最たる理由が、楽しみたいから。
売れるためだったら手段を問わない。スピリットなんて邪魔なだけ。権力や大きなものに巻かれて、とにかく有名になって売れることに命懸け。それがメジャーだというのなら、自分は絶対にインディーズのままでいたい。そして、とにかく正直に生きていくのだ、という感じでしょうか。
日本は東京一極主義。プロを目指すならまず上京するのが基本パターンですが、吉田さんは大阪を中心に活動し続けました。それは、よく思われがちな「大阪特有の東京への対抗意識」などという古臭い価値観ではなく、余計なことに捕われず、ただただ面白さを優先した結果こうなった、といったほうが正しいのかもしれません。
同じような意識のミュージシャンが大阪にはたくさんいたといいます。そして、その権力よりも楽しみ・面白さ優先の活動が、アメリカの音楽シーンからも注目を集めるようになったのです。
たびたびアメリカから有名バンドがやってきては共にライブを開催したり。また大阪からアメリカへ渡るバンドも続出したといいます。その中に吉田さんのバンドもありました。
「アメリカへライブツアーにでたんですよ。あの広大な土地を車で移動するんです。向こうのミュージシャンたちが面倒を見てくれました。だから僕らも彼らが来日した際は、とことん世話をしてあげたり。あの時は最高に楽しかった、幸せな時間でした」
吉田さんはいろんな人の世話をするうち、料理が上手なドラマーと見られるようになっていったといいます。縛られることなく自由奔放に楽しみを追っているうちに、徐々に自分の得意なことや人の役に立てる事柄が何かを結果的に悟っていくわけですね。
―1996年頃、大阪市内のエスニックレストランで勤める。
楽しむための音楽ですから、吉田さんは自虐的な活動をするつもりはさらさらなかったといいます。「ぼちぼち働いとくか」と思いだしたあるとき、バンド仲間がすでにアルバイトしていたあるレストランで働くようになりました。
それは大阪のエスニック好きでは有名な店。特に芸術家や文化人から愛されていて、しばしばライブイベントなども開催するようなカルチャースポットでした。中華をはじめアジア全般の料理に興味のあった吉田さんにとってぴったりの職場です。そして、こちらの店で運命的な出来事が起こるのです。アルバイトにきた径子さんとの出会いです。
―2000年頃、エスニックレストランを退職し、大阪市内でメッセンジャー(自転車による配達人)になる。
淀川区の十三から石橋に戻った吉田さんは、このときすでに径子さんと同棲を始めていました。で、径子さんは家の近所のインド料理店で店長として働きにでます。
―2001年頃、ついに吉田さんがインド料理店の厨房で働き出す!
そう、径子さんが勤めるインド料理店へ吉田さんが通いだしたのです。インド人の殆どは、少しでも怪しいと思った相手には絶対に料理を教えたりはしません。技術を盗まれるのを嫌うためです。しかし径子さんは店長というのもありますが、なにより、人を出し抜くようなことが大嫌いなまっすぐの性格の持ち主。なので、インド人コックともすっかり信頼関係ができていました。
インド人コックはためらうことなく吉田さんにタンドールをはじめ、カレーやその他の料理を直伝したといいます。また、このときの吉田さんたちはまだ独立などは考えておらず、とにかく人手が足らないのでサポートしていくという気持ちと、インド料理に対する興味だけで動いていたのです。
―2003年頃、知人の誘いで松阪のラーメン店で働く。径子さんをつれて移住。
(これがまた偶然にも、僕カワムラがやっていたインド家庭料理食堂「THALI」から歩いて5分のところに住んでいたそうな。ただし、僕は2001年に大阪へ戻っていますが。前編の冒頭でも言いましたが、これも縁を感じる大きなポイントです)
―2006年頃、大阪へ戻り、兵庫県西宮のラーメン店で働く。が、半年ほどで違和感を感じ、悶々とする日々を送る。そして、ついにそれまで考えたこともなかった独立開業の文字が頭に浮かぶ。
吉田さんは出店場所を探しに出ます。地元石橋を基点に各駅周辺を何度も見て周りました。やはり駅前の人通りが多いほうがいいのだろうか。それともロードサイドか。いろんな不安を抱えながら、ふと現在の場所に気持ちが留まります。
そこは決して商売が繁盛するとは思えないような立地。しかし、吉田さんの頭の中にはいろんなイメージがどんどんと浮かんでくる。常識に巻き込まれないインディーズバンドの如し、自由奔放な楽しげな発想。また、勉強してきたインド料理の記憶も絡み合いながら。
そうだ、タンドールをやっちゃおう。ナンを焼くんだ。チキンもおいしいからきっと客は喜ぶはず。今までのインド料理店は値段がちょっと高すぎる。もっとリーズナブルに出来るのに。でもインド料理なんて石橋の庶民は知らないかも。よし、それじゃ手軽に買えるようにしよう。そうだ、たこ焼き屋みたいなのがいい、ナン、カレー、チキン、全部テイクアウトOKだ!
―2007年9月5日、『SOL』開業。
店は殆どがお二人の手作りで、どこにもない独特のムードがあります。看板には「インドカレー・BEER」という文字。これは二人とも無類の生ビール好きだったためとか。
―2012年9月下旬、偶然にも5周年となるこの月に「職人味術館」の密着取材。
『SOL』は、おいしいもの、面白いものを提供することが目的。知名度をあげたりブランドになることではなく、いかにして地元庶民に愛されるか、日常生活のひとコマであり続けるのか、それこそが成果です。
これ、よく考えてみると昔から変わらない考え方ですね。なにかと情報ばかりが錯綜する現代ですが、『SOL』を見ているとほっと安心できます。過大も過少もない、実寸サイズで日々こつこつと生きておられるからだと思います。
つづく。