丹乃國蕎麦『拓朗亭(たろうてい)』 店主 矢田昌美(前編)

鶯色でふわりとした食感。香りは高いが味は上品。(2006年撮影)『拓朗亭』はせいろスタイル。写真は天ざる。(2005年撮影) 新聞の特集記事のために取材。(1997年撮影) 店先には蕎麦の花。すでに自家栽培も手がけていた住宅街で目印は赤提灯。何度も迷った。 1997年に実現した蕎麦大特集いろいろ。〆の風格。衝撃のクリームスープ的蕎麦湯。

「関西蕎麦ルネサンス」

職人味術館の第三弾はなんとなんと、そば(以降は基本的に蕎麦と表記)打ち職人さんです!

あれれ、スパイスがらみじゃないのか!?と聞こえてきそうですが、実は僕カワムラは、ライターとして長いあいだ手打ち蕎麦屋を得意としてまいりました。

いまでこそ関西にも美味しい手打ち蕎麦の専門店がたくさん出来ていますが、これは1990年代半ば以後のことで、まだ歴史は浅いのです。それまでの関西は「うどん王国」であり、蕎麦はうどんの補欠的な存在と思われてきました。

そんな時代にひたすら「美味しい手打ち蕎麦」を打ち続けてきたのが『拓朗亭』の矢田昌美さんです。もちろん、数は少ないけれど他にも美味しい蕎麦屋はありました。しかし、「生粉打ち」(キコウチ)を貫いてきたのはおそらく矢田さんだけだと思われます。

蕎麦にはいろんな種類があります。たとえば二八蕎麦は8割の蕎麦粉に対し2割のツナギという意味です。ほか九一や七三。また原料の仕様も色々です。焦げ茶色の皮も挽きくるめた黒くて野性的なもの(田舎蕎麦とも呼ばれます)。蕎麦の実の内側にある、いわゆる一番粉を使った白いもの(更科とも呼ばれます)。食べ方や汁の傾向などを言い出すとキリがありません。

そんな中で生粉打ちとは、ツナギを使わずに蕎麦粉十割だけど、皮を取り除いているために色は黒じゃなくて明るい色。新鮮な原料を使い、上手に製粉し、打ちたてであれば、時に鶯色とも言われる美しい色になります。

実はこのスタイルは世に登場してまだ間がありません。これを模した色合いのもの、あるいは通常の明るい色の蕎麦は、それまで二八蕎麦の中にはありました。しかし、十割の蕎麦といえば、それまでは太くて黒い、いわゆる田舎蕎麦と呼ばれるものが常識的。

ここで少し補足をします。現代の蕎麦屋の世界は、徹底した修業をすることなく開業される方も多いので一概には言い切れませんが、古くから真摯にやってこられた店や真っ当な識者のあいだでは表記の統一をすべきだという流れが今でもあります。

たとえば「蕎麦」とは、まじりっけなしの十割のものをさす。続いて「そば」とは、二八や九一などのつなぎをいれたものを。「ソバ」とは、そば粉が少ない、時には着色料と香料だけでそば粉が入ってないものを。ついでに「手打ちと」は、まさしく手で打ったもの。そして手で切ったものを意味する、などと。
*ちなみに日本では3割以上の蕎麦粉を使えば”蕎麦(そば)”と呼んでよし、と少なくとも1997年頃まではそう表示法で決められていました。また手打ちでないのに、そう書かれた幟を出す店も数多くありました。

たまに「三たて」という言葉も耳にしますが、これは「挽きたて、打ちたて、ゆがきたて」のこと。ようするに蕎麦は、より新鮮なほうが美味しいということです。たとえばお昼に食べるとすると、その日の朝までに挽いた蕎麦粉を、朝のうちに打って、食べる直前にゆがいたものが超贅沢なのだと。

え〜話を戻しまして…、いやいやその前に、語るにはこの人を避けては通れません。岡本さんです(まだ前置きかい!”スンマセン”)。1990年代前半に、僕が働いていたとある高級スポーツクラブの仕事仲間です。

人一倍責任感が強く、会員さんや社員からとても信頼されていた人で、いつも夜遅くまで働いていました。ひとり暮らしということもあったし、お互い若かったというのもあって、岡本さんは暇さえあれば、うまい料理を出してくれる店を探し歩いていました。

ある日のこと、岡本さんが実に興味深い話を聞かせてくれます。京都山科にある毘沙門堂で、「野だてそば」なるイベントが開催されるというのです。

京都といっても老舗ではなく、若い店がいくつか集まり、屋外で蕎麦打ちを見せながら各店の蕎麦を少しずつ提供するというのです。なんとも面白そうではありませんか。

発起人は当時太秦(現在は烏丸)にあった『味禅』という手打ち蕎麦屋さんで、他に銀閣寺近くの『實徳』、そして亀岡の『拓朗亭』の3店でした。次で(1996年)で2回目となるようです。

正確な年数は覚えていませんが、『拓朗亭』と出会ったのもこの頃です。京都市内のいろんな蕎麦屋さんから噂を耳にしていました。「山の向こう側(亀岡)に強烈な蕎麦打ちがいる」「あんな変人は見たことがない」「ツナギ無しで打つというが、普通それじゃつながらない。ぼそぼそになって切れてしまうはずだが…」などなど。
僕と岡本さんはドキドキの探検気分で亀岡へ向かいました。

そして、これが衝撃の連続だったのです。まず店に入ったその瞬間から妙な匂いが充満していたこと。(これは後に蕎麦の香りであることが判明!) 次にざる蕎麦の値段を高く思ったこと。(当時のざる蕎麦が850円。それまではせいぜい700円くらいのものばかり) メニューには冷たい蕎麦しか書かれていなかったこと。(後に温かい蕎麦も導入)

でも、これらはまだ食べる前の話。いよいよ、ここからがもっと衝撃です。ついに登場したそのざる蕎麦を見て目が釘付けになりました。なんと、それはくすんだグレイではなく、薄っすらと緑色がかっているのです。そして目の前にあるだけで香ばしい匂いがする。僕は元々料理人ですからすぐにこう感じました。冷たいのになぜ香る!?

蕎麦を一気にたぐります。スバスバスバッ、ツルツルツルッ!
すると、なんとも香ばしい匂いが顔全体に広がり、その直後から感じたことのないようなシンプルなはずなんだけど複雑な味がするのです。

麺は細く、きんきんに冷やしてないのにコシがある。それは弾力がある、といったほうがいいかもしれません。で、長い。

蕎麦という食べ物は、ワインやジャズのように、とかく薀蓄を言いたがるマニアが多いものです。僕の頭の中にも、すでにあちこちから叩き込まれつつありましたが、3口ほどすすった時点でそんな御託はすべて吹き飛んでしまいました。

こうして僕らは、生粉打ち、そして矢田さんと初めて出会うことが出来たのです。矢田さんは蕎麦に対する確かな話を懇切丁寧にしてくださいました。でも悲しいかな、どれだけ一所懸命に聞いてもそのときの僕らには半分も理解できませんでした。

これ以来、本物の蕎麦の味、にすっかりハマってしまったことは言うまでもありません。「蕎麦は酒とつまみと共に格好良く」なんてスタイル論はどうでもよくなってしまいました。(それは後に一部の地域だけの話であることがわかってきます)

女性に惚れるかのように、わけもわからず美味しい蕎麦に盲目になっていく僕と岡本さん。3日も食べていないと「なんだか切れてきましたね。今日あたり行っときますか」と、仕事を抜け出してでも通いました。

『拓朗亭』のメニューにはざる重というのがあり、これはざる蕎麦が2人前という意味なのですが、これを2回繰り返すのです。で、またちゃんといいタイミングでゆであげてくださるもんだから余計にやめられない。

少ない日でも、ざる重1セットとざる蕎麦1枚。東京の盛りなどに比べると、1.5倍もあるのではないかと思うくらいの量があります。それを何も語ることなく、ただ黙々とたぐい続けるわけですから尋常じゃないハマりようです。

また、蕎麦湯を生れて初めて美味しいと思ったのも『拓朗亭』でした。重湯のようなクリームスープのようなとろりとしつつ、鮮やかな旨み。これも癖になるのです。

店が閉まりそうな時間だと新幹線も利用しました。タクシーは当たり前。いったい、あのときのざる蕎麦はいくらになっていたのかな。わっはっはっはっは・・・・・。

時は流れて1997年2月。ライターとしての僕個人の話ですが、ついに蕎麦のまとまった企画を通すことに成功します。関西ではどこへ持ち込んでも「ソバをうまいと思っているやつなんて関西にいるわけないやろが!」「ソバはうどんの補欠。消えてなくなっても誰も悲しまない!」などと罵倒され続けていたのに。

媒体は日本経済新聞社。皮肉にも、東京からきた東大出の編集者が喜んでくれたのです。

「へぇっ〜うどん王国といわれる関西で?しかも歴史の深い京都でってのがいいね!それは排他的だった関西の食文化の大革命だ!その話、書いてくださいよ。え?ルポじゃなくてイベントをやる前に書かなきゃ意味がないって?わかりました。僕が上に話を通しておきます!すぐに取材いってきて!」

そのときの題がこれ。「京都で食べくらべ会”そば”」「新鋭4人衆腕比べ」「真のうまさ求め 日夜研究重ねる」。日付は1997年3月11日(火曜)の夕刊です。写真は一点のみで、矢田さんが蕎麦の生地を切っているシーンです。記事は4段以上にもおよび、幅も紙面の2分の1以上という、まさにビッグな記事となりました。

そして、これがとても好い影響をもたらしたと、特に「野だてそば」に参加した蕎麦屋さんたちからはそう言っていただきました。1回目は200人。2回目が300人。そしてこの記事の対象となった3回目がなんと700人越え。毘沙門堂周辺が大パニック状態になったと聞いています。

この半年後には関西のグルメ雑誌で30ページ近くにも及ぶ大企画も実現。時の編集長曰く「これは関西で初の蕎麦特集!」と大絶賛していました。

その特集の最初の見開きは、大阪のとある蕎麦屋(生粉うちではない)と長いリード文。これはあくまでイメージ的なページですので、実質的な取材ページの1軒目に『拓朗亭』が登場しています。それくらい生粉打ちの蕎麦にインパクトがあったし、何よりも前川さんの姿勢が、うどん王国の関西にとっては異端であり、革命的だったということです。

岡本さんとこんな話になりました。
“うどん王国の関西に、東京にもないような珠玉の店があるなんて面白い話ですね。こりゃ新撰組ならぬ新蕎麦組だ。歴史に名を残す、まさに京都蕎麦維新ですね”

「まったくです。でもよく考えれば蕎麦は元々手打ち。機械打ちや海外産の原料が当たり前になったのは長い歴史から見ればまだ最近のはず。矢田さんが打つ蕎麦は間違いなく新しいけど、それは古典の上になりたっているという点がまた面白いです。そう、これは復興であり進化!関西蕎麦ルネサンスですよ!」

こうして美味しい手打ち蕎麦は関西で市民権を得ていったのです。そして、それまで数えるほどしかなかった手打ち蕎麦屋が、このあたりを境に爆発的に急増しました。

つづく


せいろスタイル『拓朗亭』

丹乃國蕎麦『拓朗亭(たろうてい)』

関西の生粉打ち(キコウチ)蕎麦の草分け的存在の店。最初は閑静な住宅街の一角にひっそりとあった。口コミで徐々に客が増え、やがて連日行列必至に。駐車問題の解消、客席のゆとりをもたせるために2006年2月国道9号線沿いに移転。約40坪と以前の倍以上の面積を有し、採光が気持ちいいテーブル席と、隣との間隔が50センチ以上もある座敷で、全38席のゆったり空間に変身し、駐車場も25台以上を確保。クリスピーな天ぷら、ほか季節の鍋や一品料理、独創的なスイーツなど充実のメニュー構成で客層も幅広くなった。店主はもうひとつの得意技である駄洒落を織り交ぜながら、日々朗らかな気持ちでさらに前進し続けている。

●京都府亀岡市安町小屋場77-3
11:30〜14:15 17:30〜19:45 火曜休み(月曜は午前中のみ営業)
*売切れにより終了することもあり TEL0771-24-4334 *基本的に予約は不可