丹乃國蕎麦『拓朗亭(たろうてい)』 店主 矢田昌美(中編)

雨風に打たれ色褪せた『拓朗亭』の看板(旧店舗にて)美しい打ちたての蕎麦。昔から続く、おつまみの蕎麦の天ぷら。亀岡の畑でとれる青ネギ。もっとも新しい矢田さんの写真。(2012年8月撮影)

「勇気と自信の礎〜その1」

僕と岡本さんはとことん『拓朗亭』に夢中になりました。とにかくその美味しさと斬新さがたまらなかったのです。国内産の玄蕎麦(ゲンゾバ:蕎麦の実)、自家製粉、手打ち。これだけでも凄いのに、つなぎを入れない生粉打ち(キコウチ)があるのだから。

それまでの十割蕎麦といえば、黒くて太くて、時に箸で持ち上げるとぶつぶつと切れてしまったり、ぼそぼそとした食感でエグミが強すぎたりしたものです。

しかし矢田さんが打つ十割の蕎麦は、ほのかに薄緑色、食べる前から漂う香り、細くて長いそのスタイルの美しさ、ふわりとした食感、なめらかで弾力のある喉越し、小麦粉ではない蕎麦本来の甘み、などがあるのです。

おまけに濃厚でお腹がぽかっと温まる蕎麦湯。その上、信州や関東では見たことがない、上品な旨みとどっしりと甘辛い蕎麦汁(ソバツユ)。

さらに、ざる蕎麦によくついてくる薬味のあり方も斬新でした。こちらは、繊細にカットされたしゃきしゃきの青ネギとおろしたての本ワサビ。ネギはご実家で栽培されているもので、ワサビは静岡産です。

汁(ツユ)や薬味については少し解説が必要でしょうか。当時の関西の汁は信州や関東に比べてあっさりとしており、辛さよりも甘みが勝っていました。一方の信州や関東などは、醤油と鰹節がどっぷりと効いた、辛みの濃いもの。

薬味の基本は、水っぽい青ネギと大根おろし、ワサビのようでそうでない粘土のような既製品ワサビ、店によっては鶉(ウズラ)の生卵など。信州や関東では大根おろしや生卵があったとしても少数派で、ネギはあくまで白ネギが常識的です。

1990年代後半にもなると、あたらしく出来てくる手打ち蕎麦屋の大半が、白ネギこそ本格式といわんばかりに急増していきました。

しかし『拓朗亭』は一貫して糸のように細い青ネギの刻みと本ワサビ。汁は、醤油の辛みがありつつも、ダシや糖分の甘みもどっぷり、という、真似をするわけでも、かといって関西風とも言い切れないもの。

矢田さんは頑固を決め込んでそうしている感じがしないのが、逆に、興味深く思ってしまうところでもあります。

ネギについては「たまたま実家の畑でずっと九条ネギを栽培してたから」。ワサビについては最高級品を取り寄せつつも「こんなことを言うと生産者に叱られるかもしれないけど、正直言うとワサビは蕎麦の香りを半減させます。でも、まぁね、なにか楽しみがあったほうがええかなとも思いますし」などと実に拍子抜けの答え。もちろん、これは投げやりな気持ちで言ってるわけではありません。蕎麦のために人生を丸々賭けて来られた方ですから。

では、どういう意味かというと、なによりも蕎麦が本物かどうか、ということが大事なのだと思います。蕎麦屋の看板を揚げるからには本物の蕎麦を出すのが当たり前だと。長年の付き合いの中で、僕はそう感じています。

言い方を換えれば、それほどに蕎麦を大切にしている、ご自分の打つ蕎麦に自信をもたれているということです。虚栄心や自尊心、奢りなどといった、ただの思い込みのことではありません。それだけ茨の道を歩まれてきたことの現れだと思います。

茨の道とは前人未到の道。だから迷いや疑いといった不安が最大の敵だと思います。時に自分自身の弱点とも向き合うことでしょう。いつだって先陣を切る者は孤独なのかもしれません。そんな戦いを何日も、いや何年も繰返してこないと、揺ぎ無い蕎麦など打てるわけがありません。

矢田さんを支え続けてきたものはなんだったのでしょうか。その強い信念は、どこから生れてきたのでしょうか。

話は『拓朗亭』が誕生する前にまで遡りました。

「実は元々、蕎麦にはまったく興味がなかったんです」
”ガクッ!いきなり爆弾発言ですか!”

「はぁ、とにかくですね、それまで僕はホテルに勤めていましたが、このままだと自分がダメになる、一刻も早く将来を切り開かねば、という思いのほうが先でしたから」

矢田さんはそれまで京都のとある有名ホテルで調理師をされていました。内容は主に洋食。蕎麦とはまったく無関係のジャンルです。

「そんなときに滋賀に住む義父が、蕎麦とうどんの店をやりたいと言い出して、山形にいい蕎麦屋があるからそこで僕を勉強させるって言うんですよ。うどんならわかりますけど、まさか蕎麦なんてね」

”やはり矢田さんも蕎麦よりうどんのほうが好きだった、というわけですね。それが山形で蕎麦を学ぶことに”

「そう、いまの自分が打っている蕎麦とはまったく別物ですけど、あのとき、すごく感動したんですよ。自分たちが打った蕎麦を後で食べるんですけど、なんや、蕎麦ってこんなにうまいもんやったんか!ってね。いま考えるといい加減なものなんですけど、あのときの感動は今でも変わることなく鮮明に記憶に残ってます。いかにそれまで偽物しか食べてこなかったか、ってことですよね」

”その発見と感動を関西に広めていこう、というのが手打ち蕎麦屋を始めたきっかけなんですね。ところで最初に出された店はお住まいと一緒になっていましたが、あれは元々あった建物を賃貸でもされたのですか?”

「いやいや、こ(買)うたんですわ!完全に自分のアイデアの塊」

”当時の矢田さんはまだ30歳になるかどうかって頃ですよね。ひょっとしてお金持ちだったとか、親の七光りにあやかったとか”

「そんなものな〜んもないですよ。僕は一般的なサラリーマンの家庭育ち。社会的信用なんてないもんだから、銀行も相手にしてくれるわけがない。だから、ちょっとヤバそうな業者からお金を借りまして。とてつもなく緻密な計画書を作ったのと、もし返済できなかったら国道9号線の真ん中に寝ます、といったらほんまに貸してくれました」

”本当ですか?でもいくらか資金があって、足らない分を借りたということですよね?金利は半端じゃなく高いでしょうし。・・・・・・え?まさか!”

「ええ、そのまさかです。お金なんてまったくなかったです。なので家代店代、全額丸々を借金。逃げれば即刻、国道9号線が墓場となります」

”1985年といえばバブル真っ盛り。店を一から立ち上げるには1坪100万円から、といわれた時代。店の広さはぱっと見た感じ15坪ほど。その上、家も!いくらか、なんて聞くのが怖いのでやめときます。命知らずというか、大胆すぎるというか、無謀すぎ!”

「おっしゃるとおりです。でも、他に選択肢はなく、それが僕の活路でした」

”まさに、ご自身の道を切り開かれたわけですね。そして抜き差しならぬ状況だったからこそ、前だけを見て歩き続けてこられたと。逃げ道がある人間はやっぱりどこかで誤魔化してしまいますもんね”

「ただね、最初から蕎麦専門店ができたわけじゃないんです。そもそも開業当初は二八蕎麦だったし。うどんや丼もの、定食もあるような、いわば食堂風です。周囲はまだ建設が始まったばかりで、客の大半はその現場関係者。単純に濃い味やボリュームが欲しいというわけですよ。そんなんだから余計に」

”それがどういう道筋を通って蕎麦専門店になっていったんですか?”

「いまもそうですけど当時の僕はもっと発展途上。店の営業と同時に蕎麦の研究に時間を費やしていましたね。実家からもってきた古い石臼を使って、いろんなことを試し続けていました。とにかく製粉所から仕入れた蕎麦粉を打つだけでしたから。ほんま体当たりの毎日ですわ」

”店というものは普段の営業をこなすだけでもぶっ倒れそうなほど疲れるもの。でも矢田さんはそれに加えて蕎麦の勉強ですか。それも、どこにも情報や模範がない中で。そもそも当時は生粉打ち蕎麦という言葉じたい、まだ知られていないような時代ですよね”

「そう、僕もはっきりわかっていなかった」

”そんな暗中模索の中で生粉打ちの蕎麦をどうやって知ったのですか?”

「ええ、それがですね、みんなに驚かれるんですが実は・・・・・・・・・・」

つづく

『拓朗亭』