ハーブ『大原農園』(沖縄) 大原大幸(後編)

ご近所の農家、与那嶺さんと。ヒージャー汁(山羊鍋)の話題で盛り上がるあちこちに自生する沖縄種のヨモギ「フーチバ」 「おい!こっちこっち」と2歳のヒロヤ君 大原家の面々。長男大知君は琉球空手にも通っている 畑から車で30分ほどのところにある砂浜。本島南東部。(2010年12月撮影)2009年6月の大原農園にて。奥からカレーリーフ、レモングラスの葉、島唐辛子、ミント、ボルトジンユ(自生) 農園近くの、1時間に1本のバス停。今でも重要な足として活躍中

「沖縄でやっていく覚悟」

お二人が静岡から石垣島へ移住したのが2005年10月。大幸さんは多美子さんの兄が勤める不動産関係企業の沖縄支社に勤めることになったといいます。それがどのような経緯で農家の道へ至ったのでしょうか?

元気はつらつの多美子さんから話します。
「農家の研修を受けたのは実は私のほうなんですよ!その後、借りた畑でこの人が加わった格好。だから私のほうが先輩!」

「それは確かですがハーブへの興味は僕のほうが強かった。僕は静岡時代に居酒屋の店長勤務をしていたことがあって、リキュールや酒によくハーブが使われているんですが、これって実物はどんなだろうって思っていたんです。今でこそあちこちで見るようになりましたが、あの当時はどこにもなかった」

”そもそも、農家になろう、と最初から思っていたわけではなかった?”

「そうなんです、少なくとも僕は農家になるなんて考えてもなかった。ただ、ハーブに興味があっただけで」

「私は短大を卒業してから13年間ずっと営業職でした。自給自足の生活に憧れはあったけど、せいぜいベランダガーデン程度ですよ。それが大知が生まれた頃から、流れが変わったというか・・・」

「そう、多美子が妊娠して、設備が整った病院が那覇にあったこともあり翌年の2006年に那覇へ転居しまして。そこで大知(*1)が生れて、子供のために出来ることは何かって考えたとき、農業というキーワードが浮上したんです。

(*1=大知・・・・・ダイチ。大原家の長男。2007年3月誕生)

今は日常がご馳走になっちゃってて、何が本当に有難くて、何が本当の手作りなのか、素朴や純粋ってなんなんだと、そういう食の本質みたいなものがわからなくなっちゃったでしょ。それを見せてやることもできるんじゃないかって思ったんです」

”しかし、農業って身近なようで実は特殊な世界ですよね。どうやったら農家になれるんでしょうか。だいいち、農家の求人なんてのを見たこともないし”

「そうそう、私なんて街の生まれでなんにもわかんなくて、とりあえず市役所の農林水産課へ行って農家のなり方を教えてください、って聞きにいったんです。すると相手が困っちゃって、とりあえず農協にでも聞いてくれと言うものだから今度はそっちへ。でも、そこでもまたきょとんとした顔して最終的には市役所へ行けって言うんです。なんのことやら、もう、お笑いですよ!」

「大知が生れた頃、僕は本島東部の小島、浜比嘉島で、会社が買い取ったリゾートホテルを再構築する仕事を任されていたんです。で、そのすぐそばに4万坪もの農地をもつ地主がいて、この畑で育てた野菜を使った料理は出せないかと色々相談しているうちに、なんだか農業って面白そうだなって思えてきちゃったんですよ」

”それからそれから?”

「で、いろんな農家からも話を聞かせてもらっているうちに、農業会議所なるものが存在することを知ったんです。ここはプロをサポートする機関なのですが、新規の就農者募集や、研修受け入れ農家の情報もあったんです」

「そこで、たまたま研修生のキャンセルがでたのですぐに申込みができたんです。しかし、今度は大知の保育園探しが難航しちゃって。受け入れ先が少ないうえに、なかなか納得のいくところがなくて。紆余曲折しながらなんとか研修生活に入りました」

小さな子供をちゃんと安心して預けることのできる場所があるかどうかというのは、女性が働くうえでもっとも大切なテーマですね。

「で、ちょうどその頃、僕が勤めていた会社の母体が低迷していて、まもなく全員解雇なんてことになりましてね。そんなときに今度は畑を貸してくれるという話が。あぁ、今こそ農業をはじめる時だ!と一念発起して農家の道へ入ったというわけです」

そのときの記念すべき最初の畑が、現在コンテナ納屋が置かれている約430坪の畑だったとおっしゃいます。

”偶然ではなく必然?まるで何かに導かれてるかのような話ですね・・・”

「いやいや、全部たまたまですよ(笑)!でもね、本当の問題はここからだったんです。まず農業は、特にハーブは栽培も経営も実際にはとても難しい。そして、やっぱり地元の人たちと距離感があるってことです。農業って周囲の農家や、大きくはその町と密接につながらないとやっていけないもんなんです」

”よく田舎暮らしに憧れて都市を離れたのはいいけれど、その土地の人々と上手くコミュニケーションがとれずに、舞い戻ってきてしまう人がいると聞きますね”

「特に沖縄は距離感があると思いますよ。最初の頃はみんな遠くのほうで車を止めてこちらを見ているだけでした。それで、ある程度してから一人一つの質問をしてくる。それを繰り返しているうちにみんなの中で僕らの人物像が出来上がるんでしょうね」

”農園のある村は代々の方ばかりの土地柄ということですが、大幸さんはどうやって人々に受け入れられたのですか。なにかきっかけみたいなのがあったとか?”

「ここで作業をやりだして1年くらい経った頃かな。僕はニラの栽培計画をしていて近所の農家に相談したり、いろいろ準備していたんですよ。そんなときになんかの選挙があって、僕しかいない田園に選挙カーが入り込んできたんです。そして鶯嬢がこっちをめがけてマイク越しに言うんですよ。

ちょっとそこのニラ農家のお兄さんっ!清き一票をよろしくね!って。ぶったまげたな、あれには。まだ畑には植えてないし、限られた人しかそんなこと知らないはずなのに、全部筒抜けになっている。思わず噴き出しちゃいました。あぁ、こりゃ嘘は通じないなって。と同時に、僕はこの村のメンバーに加わったんだって確信しました」

”おもしろい!村人から伝って選挙の人がマイク越しに堂々と言っちゃうのと、あとはそこに嫌悪感をもつんじゃなくて笑って応える大原さんがいたということ。お互いが融和しあった瞬間なんでしょうね”

「そうですね。とにかく、そのあたりから周囲の農家が道具を貸してくれたり、向こうからアドバイスをくれたり、どんどん距離が縮んでいきましたね」

”ところで大幸さんの周りの方々はみなさん地元の方ですか、それとも余所からの?”

「殆ど・・・いや全員かな、ウチナー(*2)ばかりですよ。やはり、ナイチャーとウチナーの間にはなにかしら距離があって、それでだんだんナイチャーばかりのコミュニティができたりしていくみたいです」

(*2=ウチナー・・・・沖縄で生まれ育った人のこと。対して本土(内地)から沖縄へ越してきた人のことをナイチャーと呼ぶ)

「でも、ウチナーの気持ちもわかります。だって、ナイチャーってけっこうな率でワケありの人がいるのも事実だから。で、孤立してしまうと、すぐに貯金を使い果たしてしまって、離別したり、内地へ帰っていったりする」

現代の、特に都市部になるほど、人付き合いが希薄な分、もっと密接につながりたいという欲求が湧くのかもしれません。でも、その思いが強くなるほど却って対人関係がうまくいかなかったりすることも。ほどよい距離感を知らないのだと思います。

”ナイチャーが地元に根付くために大切なことはなんだと思いますか?”

「沖縄に限った話じゃないと思います。やっぱり腹をくくらないといけないんじゃないかな。単なる憧れや顔をつないでおけばいいや、っていうのでは深い信頼関係は築けない。自分はこの土地でやって行くんだ、骨を埋めるつもりだ、という覚悟」

”いやぁ、大原さんたちと初めてお会いしたときは、てっきりウチナーだと思いましたよ”

「うち、集合住宅なんだけど、み〜んなウチナーばっかし。そこで大知も次男の大弥(以降ヒロヤと表記)も完全に同化してますね。毎日みんなと一緒にどろんこになって遊んでますよ」(多美子さん)

”子供さんたちは二人とも沖縄生まれですもんね。言葉も僕の耳には沖縄弁にしか聞こえないし”

同化しなければいけない、という意味ではなく、それだけ大原家と沖縄がお互いを受け入れあっている、ということがとても意味のあることだと僕は思います。

大切なのは覚悟。それを重ねた分だけ、早い話が味に輝きが灯る。高級で複雑な技があるとか、旨みが濃いとか、そういうこと以前に、そこに光があるのかどうか。

大原さんたちが作るハーブはどれも、ぷちぷちと精気が漲り、どこか愉快で、ちょっとデリケート。そう、泣いたり笑ったり、いきいきとした目で走り回る大知君とヒロヤ君のようでもあります。

つづく  
      次回は特別編

『大原農園』