世界のごちそう『パレルモ』 店主 本山 尚義(後編)

「本山流の修業。料理と旅の両輪」〜その2

西洋料理一筋に坂道を登り続け、時折、海外旅行にもでかけていた本山さんに、あるとき大きな転機が訪れます。西宮の高級レストランから今度は愛知県へテイクオフ!

「ええ、これもまた人の紹介だったんですけど、一軒のレストランを経て、そのすぐ後に蒲郡のホテルで副料理長として勤めることになったんです。僕が27歳の頃かな」

”まだお若いのに大きな飛躍ですね。蒲郡も神戸みたいに海の幸が豊かそうだから、本山さんが磨いてきた地中海料理の技がいかせたんじゃないですか?”

「ええ、まぁ・・・・。でも、うまい具合には続かないもので。実はしばらくしてから、その時の料理長が会社と喧嘩をして突然退職してしまったんです。自動的に僕が料理長に昇進するわけですが、それよりも、とても信頼していた人だけにちょっとショックで。

そんな矢先にあるお客さんからインド旅行に誘われまして。ホテル勤務は待遇がよかったのでしばしば旅に出ていたのですが、インドは未踏の地。元々興味がないわけじゃなかったし、いいきっかけだと思って」

”紺碧の青と眩しい白から、今度は黄や緑のコテコテの国インドですか”

「そうです。で、これがわずか1週間の旅だったんですが、面白いくらいに染まりまして。とにかく何もかもが衝撃でした。頭をハンマーかなにかで殴られたような感じ」

世界中の多くの旅人が魅了されてやまない国、インド。今まで積み上げてきた固定観念が音を立てて崩れ去っていくなどとよく耳にします。

「まったく。牛や犬が人と同じ道路を歩いてるし(笑)。駅構内に暮らしてる人も大勢いました。何もかもが究極の混沌です。でも、それでも物事はなんとか流れていく。そして人々の目はぎんぎらぎん。生きる力が半端じゃない!

もう、それまでの自分は全部吹っ飛びました。何だかどうでもよくなった感じ。人間が生きるとはこういうことなのか、って」

”それはさぞかしホテルの仕事にも影響を与えたことでしょう・・・え、あれ、ま、まさか!?”

「むふふ・・・・そうです、ぜ〜んぶ捨てました。こんなことやってる場合じゃないと。人生をまた新たに積み上げなおす必要があると思ったんです」

大胆、型破り、尋常ならぬ行動力。破壊と創造を繰り返し、本山さんの人生はますますドラマティックになっていきます。そう、皆さんのご想像通り。インドへの再トリップです。しかも今度は3カ月の長期滞在!

このときは飛行機や宿の手配から、行き先やアクセスなどすべて自分ひとりで決行。いわゆるバックパッカーです。

「そしてインドには日本で考えるようなカレーは存在していないこと、スパイスを駆使した料理を実際に毎日食べ続けていること、さらに古典的なのに斬新だと思える料理が無数にあることも知りました」

帰国後は近くのインド料理店に勤めだし、インド人が講師を務めるシタール(インドの弦楽器)教室にも通いだす本山さん。人から「インドの宗教でも始めたのか」と疑われるほど心酔していきました。

また、しばしば上京してはインド系の飲食店や雑貨店などを訪ねるうち、やがて都内のアジア系の飲食店に勤めることに。今度は誰かに誘われてではなく、ご自身の決断で行動されたとおっしゃいます。1995年、本山さんが29歳のこと。

愛知、そして東京へと、わずか2、3年の間に、人生を左右するような革命が一気に起こったわけです。それまで吸収を積み重ねていく、つまり受身の姿勢だったものが、インド体験の後は決断と行動という能動の姿勢にシフト。

そして30歳代に突入した本山さんは、ついにご自身で店を作ることを決意します。しかし、この準備が半端じゃない。なんと、またもや旅に出たというではありませんか!

いや、むしろここからが本番。今度はさらに長い期間、8カ月の一人旅!いやはや、本山さんの実行力には頭が下がります。

「とにかく現地の味をとことん知らなきゃ、と思ったんです。すべて再現できなくても、わかったうえでやるのと、わかってないでやるのとではやっぱり違うな、ってね」

このとき、本山さんはタイ、スリランカ、ネパール、インド、チベット、そしてまたネパール、タイという順で遍歴します。そして今度の拠点はインドのすぐお隣のネパール。

「実はそれまでに、レシピを片っ端から教えてもらったネパール料理店が東京にありまして、そちらの関係でネパールに住んでおられる方がいて、その方を頼りにさせてもらったんです。

このときのネパールには述べ4カ月間の滞在。もちろんインドへも行っていて約2カ月間です。しかしまぁ、これだけ長くいると非日常が日常といいますか、例えば料理を食べてもそれが当たり前で何も不思議に思わなくなってしまいました(笑)」

照れくさそうに笑う本山さんが、その当時のネパールの写真を見せてくれます。そこにはネパールの若者たちが活き活きとした表情で写っていました。共にいる本山さんはまるで彼らのクラスメートか親戚のように見えます。

”うぅむ、ほとんどネパール人と見分けがつかない!(笑)”

「みんな本当にいいやつばっかりなんですよ。日本からすれば、貧しくて、厳しくて、苦しいことだらけに見えるんですが、みんな凄く表情が豊かで、毎日がピュアな笑顔で溢れているんです」

料理はあくまできっかけのひとつ。インドとは比較にならないほど小さな国ネパールにも、地域性や民族ごとに違う文化があることを知り、やがては国境を越えた友情を育てることに喜びを感じるようになったのです。

ネパールでの青春旅行は1997年のこと。本山さんは31歳になっていました。

が、驚くべきことに、帰国して間もない本山さんはまたまた旅の計画を立てます。今度は「食」に徹底した「修業総仕上げ」の旅。期間は1年!周った国の数は22カ国!!(まいりましたっ)

これらのほぼすべての国の、どの地域のどんな料理を体験するかの計画もたてたとおっしゃいます。途中、奥様と合流し、3ヵ月ほどは2人旅にもなりました。

そして、この1年間の世界旅行を大きな節目とし、本山さんは1999年3月、ようやく独立開業を実現します。場所は神戸山手のベッドタウン、鈴蘭台の一角。店名は『道厨房』といいます。

振り返ってみれば、初めてのフランスから1年間の世界の旅まで、海外行脚はざっと3年と3ヵ月に及んでいました。

仕事をしながら、時には仕事を捨てて、(おまけに奥様まで巻き込んで!?)、繰り返してきた海外の旅。第一話から僕は「凄い、凄い」と連発してきましたが、ここにきてあらためて「凄い」と、そればかり。

さて、創業から早14年が経つ今日。1998年には2号店として『パレルモ』が誕生。しかし、鈴蘭台の『道厨房』は2004年に惜しくもクローズ。長い年月の中には、悲喜交々の語りつくせぬ紆余曲折があったことと思います。

出会ってまだ1カ月ほど。僕が『パレルモ』へ伺ったのは現在で6、7回。ペンション時代から数えると27年以上にも及ぶ本山さんの料理人生を、たかだか15時間程度のインタビューでは語ることはできません。(いまさら何を言ってるんだ!)

でも、一つだけ確信したことがあります。それは『パレルモ』には感動があるということ。ありきたりな表現ですが、つくづくそう感じるのです

1月29日、お昼過ぎに『パレルモ』を訪れた僕は、この日の特別メニュー「ミャンマーの鶏肉カレー」なるものを注文しました。

それは薄い黄色のさらりとしたカレーで、ジャガイモと皮付きの鶏肉がごろごろと入っていました。米はジャポニカ種です。味はひと言、シンプル。しかし、食べているうちに、いろんなことが頭に浮かんでくるんです。以降、カワムラの頭の中・・・。

 ミャンマーってどこだっけ?それにしても、こんなにシンプルなのにジャガイモと鶏肉の旨みがあ
 わさって豪華な味わいだ。貧しい国なのかな。この組み合わせは大衆的なもの?塩気と油分、ター
 メリックの3本柱!あれ?待てよ!このカレー、あとはカイエンヌペッパーのみということは、ド
 ライスパイスは2種類だけ!?俺は昔、4種類でカレーはできるんだぞ、なんて自慢しちゃった
 よ。ええーっ!しっぶ〜。格好いい。さらに、この鶏肉のぽろぽろとした独特の食感もいい。なに
 これ?ははぁ〜、油で煮たのかも。フレンチでいうところのコンフィに近い・・・。
 (長くてスミマセン)

とそこで、隣に座っていた熟年の女性客二人の歓喜の声で目が覚めました。「きゃぁ〜ウレシイッ!」。そのお客の目の前にはローソク付きのケーキがあり、本山さんとスタッフの女性が拍手をしています。なにやらどちらかの方が誕生日のご様子。

こういうのって、もらい笑い、と言っていいのでしょうか。僕もカレーを口に運んでは、つい、もぐもぐ&ニコニコ。(怪しい?)

店と客、というより、人と人。たかがランチの一皿ではありますが、されど、この中には数え切れないほどのドラマが詰まっており、女性客たちにはこのときの祝いが(ケーキが?)、そして僕の中には、お隣の女性の喜びが刻み込まれました。

「ミャンマーの鶏肉カレー」。いかにして本場本国か。そんなこともいいのですが、様々な想像を働かせたり、感動を得たり、目には見えないものを感じ取っていく楽しみ方もある、ということを『パレルモ』は教えてくれているのでした。

つづく   次回は特別編。

『Palermo(パレルモ)』