『十三トリスバー』2代目店主 江川栄治(後編)


「十三のえーちゃん」

「えーちゃん」。漢字で書くと「栄ちゃん」。江川栄治さんの愛称です。第一話に続き、ここでまた失礼なことを。しかし、この言葉こそ、1956年から続く「十三トリスバー」の長い長い道のりを語るのに相応しい言葉はないと思いまして。

えーちゃんは1950年に和歌山県有田市で生まれました。お父様の寛さんは高校野球の名門箕島高校を出られて、地元の紀陽銀行に就職。後、戦争へ出られるも無事に帰ってこられてから、地元で捕れた魚や芋飴などを売る「江川商店」を立ち上げます。

そして3、4年後、日本は猛烈な高度経済成長期のど真ん中にあり、「もっと高嶺を目指そう。これからはバーがいい!」と寛さんは大志を抱いて大阪へ。一度鶴橋を経てすぐに十三へ転居。そこで「十三トリスバー」を開業したのでした。1956年3月のこと。

えーちゃんは6歳になっていました

その翌年、「京橋(大阪)トリスバー」も開き、何人かのスタッフを雇って店を切り盛り。お母様の清子さんは帳面付けや簡単な接客などの手伝いをしていたそうです。

えーちゃんは十三筋を少し西へ行った大阪市立神津小学校へ。ご自宅は店の2階にあり、店は3メートルあるかないかの間口で奥行きが10メートル強ほどの鰻の寝床状態。入り口は2つあり、ひとつは賑やかな商店の通り側に、そしてもうひとつが駅の石積みが壁となる一見は裏通り。

2階へ通じる階段はこの駅側の入口側にあるのですが、店内をかすめるため、えーちゃんは毎朝、店に染み付いた酒や人のにおいを感じながら家を出て、外で遊んで帰宅する頃には酒を飲みながら仕事の話なんかで盛り上がる大人たちの声を横目に部屋に上がっていく、という生活。

このときのことを江川さんは、たくさんの常連客の方々が筆を寄せて作り上げた創業50周年記念本『今宵も十トリで乾杯!』(2006年十三トリスバー発行)で、こう書いておられます。

「当時私には大きなおじさん達が、ハイボール片手に、ワイワイと楽しそうに話す姿が羨ましかった。グラスに光るレモンと氷はいかにも旨そうだったが、飲ませてはもらえなかった」

酒と大人たちの声が溶け込む環境で育ったえーちゃんはやがて高校を出て、大学へ通いだします。その頃から家業を手伝うようにもなったのです。

しかし、昔も今も自分の家が客商売をしているというのはよくあることと思いますが、家が洋酒を売るバーというのは珍しいことではないでしょうか。昔で言う「ハイカラ」。なんか格好いいような気もします。

「う〜ん、そうはいっても僕の時給は80円!当時、タバコのハイライトが1箱80円。ちょっと前までハイライトって200円くらいやったでしょ?なんも格好よくないですよ。

あるとき、確かあれはクリスマスの時期やったです。父の知り合いの店に突然欠員が出たのでヘルプで入ったんです。このときにもらった時給がなんと700円!アルバイトは綺麗な女の子ばっかしやし、芸能人のお客さんは多いし、もう最高やん!

いったいこの差はなんなんやってね。で、母親はこう言うんですよ。”あんたは見習いやから”って。ま、有名なカクテルなんかはこの頃に覚えたわけで、今からすればあれは修業やったということやね」

家業であり、家の1階に位置する十三トリスバーは、えーちゃんの青春の1ページでした。

しかし、その青春真っ只中に不幸が襲いかかります。えーちゃんが20歳、大学3年になったときに最愛の父、寛さんが急逝してしまうのです。

「都会へ出てきて旨いもんが一杯あるもんやから。特に肉が旨い言うてそれっばかしで。魚しか食ったことのないような人間やから高血圧になってしもて、それで・・・・」
心筋梗塞でした。1970年8月10日、永眠。

「その後はスタッフの高橋さんという方が番頭として勤めてくれたんですが、この方も5年後に急逝してしまって。一応、僕も店では働いてましたけど、あくまで手伝いみたいなもんで・・・・・。

う〜ん・・・・僕はすでに企業に就職してたし、家業を継ぐとか、そんなこと考えてなかった。でもこのときはさすがに、店を閉めるのか、それとも残すのか、の瀬戸際で。

それやったら僕がやろかぁ〜って。先のことはやってみてからまたゆっくり考えたらええわぁ、そのうちおもろいこともあるかもしれんし、っていう風に考えたんです、うん」

ビールの注ぎ方ひとつをとっても言葉では解説できないほどのストイックさがあるかと思えば、このように信じ難いほど楽天的、なおかつ潔よい面もあるという意外な多面性がこれまた興味を持ってしまうところです。

こうして弱冠25歳のえーちゃんは、導かれるかのようにして「十三トリスバー」の店主になったのでした。

”今と比べて昔は、家の都合とか、人生の成り行きでその仕事に就く、という人が多かったように思います。江川さんの場合も、店を始める前からたくさんの人々の期待と責任を背負っていたわけですね”

「お客さんの殆どが僕より年上やし、どこかの支店長さんみたいな人ばっかりやから、叱られっぱなしでした。髪の毛を触ったら”こら!オマエ、その整髪料がついた手で客のグラスを触る気か!”とか、”客の前でタバコを吸うな!”とか。

僕は昔タバコを吸ってましたし。とにかく、うるさい、うるさい。でも、無茶を言ってるわけやないんです。ほんま今考えたら全部当たり前のことばっかしで」

えーちゃんをこよなく愛してきた常連客の皆さんの気持ちが手に取るように伝わってくるお話です。それだけ、お父様寛さんが人々に尽くしてこられたからなのかもしれません。

”その当時のお母様の清子さんはどんなご様子でしたか”

「おばあちゃんは酒のことはなんも知りません。ジントニックもでけへんし、ビールもつげない。店では、そろばんと伝票と接客係ってところです。

まぁ家のこともしてくれたけど、基本的に料理があんまり得意なほうじゃない。小さい頃のご飯はいつも、塩鯖か玉子焼き、あと冷奴くらいやった(笑)」

”十三トリスバーは、ならではの美味しい料理が一杯あることでも知られていますが、これらは全部江川さんの独学ですか?”

「一応。でも最初はオイルサーディンが最高級品!料理学校をでたわけじゃないです。昔、番頭さんの親戚の娘さんがバイトに来てて毎日一品なんか作ってたんです。それで3年くらいで辞めてしまって、その流れで僕が作るようになりました。

その後いろいろ料理が増えていくんですけど、僕にとっての先生は関西テレビの”楽しい料理教室”という番組!あれは確か32、3年前。週5回放映してて、中華、西洋、和、アイデア料理、名店の料理なんかを日替わりでやるんです。

放送は1日15分程度のものなんですけど、お客さんに関西テレビの方がいてテキストをもってきてくれたり。テレビと本の両方を見ながらトライしてみるんです。

この実践を延々と6年間ずっとやり続けました。おかげで、言葉にならない部分の按配もわかってきて。やがては素材を見ただけでイメージが沸くようになってきた。

でもまだまだ作り方がわからんもんも多いです。このあいだ、マロングラッセも作りましたで〜。これは、めちゃ時間かかる!

熱くないと皮が剥けない。冷めたら剥けへん!だから1個剥いては沸騰させてまた皮を剥いて。その後は半分湯がいて止めて、ガーゼで包んで、グラニュー糖をいれて、冷まして、また煮て、どんどん濃度をあげて、何日か繰り返すとウニュッとなってくる。それを乾かせて・・・・・あぁしんど〜。

そんな感じで手作りするもんは多いし、生もんも出すし、定番のもんは変わらず用意しているし。だからよくオススメはなにか、とかいわれるけど、そんなもん今できるもんはこれだけですとしか言いようがない!」

江川さんの話は面白すぎて、もっともっと聞きたくなってしまいます。これこそが「十三トリスバー」の最大の隠し味なのかもしれません。

通常、老舗のバーなどは自他共に語る時、よく名誉や武勇伝などが誇示されがちですが、江川さんは自らの店を「な〜んも格好ええところはない店」とおっしゃいます

今から20年ほど前にソムリエの資格も取得されたのですが、ワインに興味を持った理由は、産経新聞のある記事を読んでから。

「当時やっていた”エンドレスナイト”という番組のプロデューサー上沼真平さんがボジョレーヌーボーの話を書いていたのが面白くて!これをきっかけにワインの世界に足を踏み入れたんですよ。上沼真平さん、ありがとうございます!」

その後、サントリーのソムリエスクールに通い、リーガロイヤルの岡さんなどの授業を受け、友達同士で勉強。元々酒はそんなに強くなかったのに、だんだん飲めるようになったとか。さらに今でもできるだけ酒のセミナーに参加していたり。

ただただピュアに生き続けているところが素晴らしいです。えーちゃんは今年で63歳。
「これからは80%の力で」とおっしゃいますが、若いときほどではないにしても、まだまだ登りの途中。そういう姿勢がめちゃ格好いいと思います。

つづく

『十三トリスバー』