『十三トリスバー』2代目店主 江川栄治(特別編)

「一枚の写真」

小生、第一話で十三(じゅうそう)に住んだ経験があるという話をしましたが、2年弱なれど、当時は地元衆で作る街興しメンバーの端くれであり最若手!? また、ジャーナリスト体質という角度から見ると、これほどに濃厚かつ長期にわたる取材は他にはありませんでした。

そんな中で、街の長老をはじめ諸先輩方、街と深くかかわるその他大勢の方々がよく話題にしていたのが、「十三はなにかと文化・芸術の舞台にもなる街」ということでした。

「十三東口の洋食とんかつ”大富士”とか、十三ミュージック(ストリップ劇場。閉店)なんかが『ミナミの帝王』(映画・Vシネマ)で使われた」とか、「街一番の栄町商店街はアメリカ映画のブラック・レインの暴走シーンの舞台となった」など。

さらに「藤田まことさんのヒット曲”十三の夜”は、十三の街のことを巧みに表現している曲で、”十三の娘(ねえ)ちゃん♪”というフレーズが特に男性たちのあいだで愛されてきた」とか。ほかにも多くのテレビ番組や雑誌、写真集などにも使われています。

梅田から電車で5分。川幅600メートルほどの淀川を越えたらそこが十三駅。鉄道は阪急の全列車が停車する梅田に次ぐ主要駅です。

また昭和以前の歴史談もたくさんありました。「十三は昔から道と人が出会う街。能勢街道や中国街道など大きな街道が交わり、淀川では渡し舟に乗ろうとする人でごった返していたらしい」とか。「あの十三大橋は明治時代に民間人が出資しあって架けられた、まさに大阪庶民の心意気が詰まった橋なんや」とか。

このような話を、ネオンきらびやかな栄町商店街にあるネギ焼き(名店”やまもと”発祥)や、西口改札真正面に店がある十三焼(淀川の渡しにちなむ老舗”今里屋久兵衛”の焼餅)を食べながら聞かせていただいたものです。

大阪の中心地などにも昭和中期以降の面影は多く残っているものの、それ以前の面影は意外に少なく、昭和の混沌と喧騒がありながらも深い歴史の形跡をあちこちに見つけ出せるところが、十三にドラマティックなものを感じる理由なのかもしれません。

ということで西口を出てすぐの、南北に100メートルほどのエリアに数え切れないほどの店がひしめく通称「しょんべん横丁」などは、筋金入りとでも言いたくなるほどのところです。

「十三トリスバー」はそのど真ん中。そう、やはりこちらも映画の舞台になりました。それは1999年公開の「大阪物語」(市川準監督*1)という映画。

(*1)市川準監督 http://ichikawa-jun.com/index.html
1987年の「BU・SU」を皮切りに、「会社物語」や「病院で死ぬということ」、「東京夜曲」、「トキワ荘の青春」など全21作品を手がける。東京生まれの市川氏にとって「大阪物語」は初の大阪を舞台にした作品。当作品を含めて初期のものはビデオのみで、多くのファンがDVD化を熱望する。2008年の自主映画「buy a suit スーツを買う」が遺作となった。

昭和の大阪の泥臭さをぷんぷんと匂わせるタッチと内容で、主役は漫才師家族の設定です。夫役でありボケ役が沢田研二さんで、妻役でありツッコミ役が田中裕子さん。その娘役が池脇千鶴さんとなっています。

あるとき、父親が蒸発してしまい、娘が何日も探し続けるのですが、そのワンシーンに十三トリスバーの店内が使われているのです。こちらでは娘がお婆さんとこんな感じでやりとりを展開します。

「お父ちゃん、ほんまに大阪におるのかな・・・」(娘)

「大阪にいてるやろ。いてる。大阪ておかしいとこで、いったん住んだら大阪から離れんのが嫌んなる。どうしても大阪にいついてしまう。大阪が好きになんねんな。なんでやろな・・・・・大阪てええとこやで、ほんまに・・・・なにがええのんかいな。まず、うどんがうまいこと」(お婆さん)

このくだりで、それまで落ち込んでいた娘は涙を浮かべ笑顔を取り戻します。このときのお婆さん役がミヤコ蝶々さん。ガラスから差し込む鈍い採光と、きらりと輝くビールサーバーがバックに映っているとても印象的なシーンです。

そう、このサーバーこそが今回の一話、二話と登場したあの生ビールの源です。光沢が眩しい金色は真鍮製によるもので、今から25年ほど前にサントリーから進呈された、と江川さん。「十三トリスバー」の主役格であることは言うまでもありません。

さて、最終回のタイトルである「一枚の写真」ですが、実は今回の取材に入る時、こんなことがありました。

江川さんと構成の打ち合わせなどを済ませ、僕はそのまま客となってノートをかばんに入れてビールを一杯。そして一息ついてからこういいました。

”そういえば江川さん、ポストの写真をうけとってくれはりましたか?”

「ん、なにそれ???」

”いや、お母さんとお二人で写っているカットですよ。フォトグラファーから渡しておいてくださいと預かっていたもんだからずっと気になってて”

「いや・・・・写真は知らないね・・・・」

”ええ、そうですか!・・・確か昨年の秋くらいに”
なんだ江川さん、忘れないでくださいよ、と、こっそり心の中でつぶやく僕。そう思ってビールを再び口にしたとたん、江川さんがひと言。

「おばあちゃんね・・・亡くなりましたよ、このあいだ。3月17日・・・・・」

”えっ・・・・・・・・・・・・”

「ほんま、めっちゃ寿命を全うしましたわ。90歳やもん!長いこと生きたわぁ。ほんま、よう生きた。あれだけ長いこと生きて文句言うたらバチあたる。寿命以上を生きたと思います。よかったなぁって・・・・・」

いつも以上に甲高く聞こえる江川さんの声が店内に響きます。

それを聞いて愕然としてしまう僕。しばらくのあいだ自分が店に来れなかったことの後悔と、あのときの写真をご覧になっていただきたかった、という無念さが混ざり合います。

あのときの写真とは、とある取材の後に、フォトグラファーが気を利かせて記念撮影したものでした。お母様の清子さんは「写真嫌い」とのことでしたが、そのときは「こんな婆さんを撮ってどうすんねん?」などといつものようにぼやきながらもすんなりとカメラの前に出てこられたのでした。

おそらくもう10年ほど前のものと思われますが、江川さんはその当時「こうして二人で仲よく写真に撮られたことはまずありません」と話していました。お二人とも実に自然体で、ほんのりとした笑顔が実にステキな写真でした。

僕はいつも昼間とか夕方とか、中途半端な時間ばかりにしか届けにくることが出来ず、もちろん店はまだあいていないので、封筒に入れてポストに入れておこうか、あるいは本に挟んで入れておこうかなどといろいろ考えるも、いや待てよ、江川さんがポストの中をチェックするだろうか、それよりも雨が降ったら濡れるか、などと逡巡したあまり、何度目かのときに、封筒に入れてポストに入れたような、そうでないような・・・・。

結局、ポストに投函したのか、それとも江川さんが忘れてしまったのかはわからないまま、今回の取材を進めること約1ヶ月間。

そしてついに最終回に取り掛かっている最中、「大阪物語」をもう一度だけ観ておきたいと思い、1週間ほど前に録画したばかりのDVDを取り出そうと机の引き出しをあけると、あれれ、「大阪物語」が見当たらない。

なんだ、神隠しか〜?よーし、こうなったら大掃除だ!などとヤケクソ状態で、引き出しすべてをひっくり返します。

するとCDやDVDの束の間から何かがぽろり。ふと見ると、なんとなんと、あのときの写真ではありませんか!

”うわっーーー!!!なんで今頃???っていうかあの写真がこんなところに!?そうか、あのとき、やっぱり何が何でも直接お渡ししたほうがいいと思って結局ポストに入れるのをやめたんだっけ”

今このタイミングでこの写真が出てくるなんてすごすぎる!興奮したまま僕は急きょ原稿を中止して、写真屋まで走って引き伸ばしのプリントを注文。ちなみにDVDは帰宅後すんなりと発見し視聴することが出来ました。

十三トリスバーには名物がたくさんありますが、おそらくその究極がお母様の清子さんだと言っても、往年の常連客の方々からお叱りを受けることはないでしょう。

中途半端な一客の僕が偉そうに語ることはとてもできませんが、ひと言だけ言わせていただくとすれば、まさに映画「大阪物語」のミヤコ蝶々さんのような感じの方でした。

愛嬌のある懐かしい大阪弁で、薄っすらと笑顔を浮かべながらもばっさりとモノを言うのです。僕などは時に「あんた、酒をお代わりするくらいやったら定期貯金をしぃ。それが子のため妻のためになるんや。それは男の愛なんやで」と、そのお叱りを肴にお代わりしたものです。

最終回では、支離滅裂になってもいいから「十三トリスバー」のことを思う存分書ききろうと思っていたのですが、あのときの一枚の写真の出現によって、僕の薄っぺらいイメージはスーッと消えてなくなってしまいました。

遅ればせながら、この写真を江川さんにお渡しして、本章を締めくくらせていただきたいと思います。

十三トリスバーの誕生から今日までを守ってこられた清子さんを偲び、そして、まだまだ登り途中の江川栄治さんに感謝と激励の意をこめて、乾杯!

おわり

『十三トリスバー』