堺刃物『芦刃物製作所』 芦 博志(後編)

「職人の顔が見える包丁〜その2」

真夏の猛暑の中で焼入れ作業を行っていた芦さんと、蕎麦屋へ駆け込み昼休み。そして、日本人の包丁のニーズと堺の伝統との距離感の話になりました。

「堺の職人は、良くも悪くも、余計なことは考えずただひたすら身体に叩き込むというやり方。そして、いつか独立して問屋から仕事をいただくわけですが、昭和60年前後までは需要が伸び続けてきたからいいものの、それ以降は減る一方。

このままでは、いつか弟子と師匠が仕事を食い合う状態になって共倒れになるんじゃないかと僕は思いました。でも、歴史や伝統が深い町だけに、そう簡単にやり方を変えるなんてことはできませんしね」

”そうなんですか・・・。実は僕、まだよくわかっていないのですが、堺ならではの包丁作りというのはどういったものなんでしょうか?”

「ふむ、伝統的なのが打刃物。赤らめてハンマーでトンテンカンのあれですね。地金(軟鉄)に刃金(鋼)をあわせて、段階的にたたいて成形していく。これぞ手作りの和包丁という感じです。すべて手仕事だから一本一本微妙に違う。

でも戦後のニーズは簡単に言うと大量生産品。殆どがステンレス製で錆びない。細かい手入れもそれほど必要ない。殆どが万能的で、形としては洋包丁が殆ど。

ちなみにうちは、その手作業と機械の融合。言わば和洋折衷ってところかな。長年をかけて構築してきたうちならではの方法です」

”芦さんのスタイル、というと「銀香」なるブランドを創っておられますが、他にも堺の職人さんが打ち上げたブランドというものはあるんでしょうか?”

「他にはないと思います。職人はあくまで職人。そもそもブランドを立ち上げるのはだいたいが問屋です。問屋は職人を取り仕切り、お客側とうまくつなげるのが仕事。昔の問屋や商店は、エンドユーザー、特に料理人のいい相談役だったんですよ。

けど、今はそういうバランス感覚のある人が少なくなった気がします。だから料理人から疑問や意見があってもちゃんと対応できなかったり、職人に物を言おうにも、分業制で複数いるものだから誰に言っていいのかわからなかったり。

そういった問題の解消のためにも、本物の良いブランド、つまり一貫したメーカーになればいいのではないかと、僕はそう思ったわけです」

”芦さんのような一貫した包丁作りをしている業者は他の地にはありますか?”

「ええ、岐阜の関市や新潟の三条など全国各地にありますよ。時代に応じるように、いちはやく大量生産に向けた機械も導入していました。一方、堺は伝統と歴史を背負っているだけに、そこに歩調を合わせることがとても難しかった。

ま、うちはその点では気が楽なほうだったかもしれません。僕でまだ二代目だし。堺の歴史は半端じゃないですからね」

”そうですか。刃物の都の宿命なのかもしれませんね。食材は切っても、脈々と継がれるDNAは斬るわけには行かないと”

芦さんのお父様は富山県のご出身。漁師の家に生れ、お爺様が海の事故でお亡くなりになり、どういうわけか堺の包丁職人のところに丁稚奉公に入ったと言います。

「しかし気の短い人やったから喧嘩してすぐに辞めてしまって。親戚の叔母さんがこの近所に住んでいたもんだからそこにお世話になって、刃付けの仕事を始めました。

でも、見よう見真似でやっていることだし、ぎりぎりの生活です。家族を養っていくためには、もっと売上を上げなければならない。そのためにやれることは唯一つ、とにかく良い物を作らないといけない」

”「良い物を作る」ためにどういうことをされてきたのですか?”

「ええ、まずは工業高校に入学しました。そして寝る暇を惜しんで必死で勉強したんです。今でもそのときの教科書は大事にとっていますよ。

そして家業を手伝うようになった頃、ここでまた本と出会うんですよ。それは職人ではなく学者が書いた実に科学的で論理的な本なんです。でも、当時の堺の職人たちにとっては、学者の本はあまり興味が向かなかったようで。

これは組合事務所にあったんですけど、聞いてみたら、持っていってもいいぞと言うもんだから僕は喜んで頂きました。

で、そこにちゃんと書いてあるんですね。この金属なら何度の温度で処理をして、顕微鏡で見たら組織はこうなっていて、と写真入りで。今ではその本が業界のバイブルみたいになってますけども・・・」

”では、その本が芦さんの師匠みたいなもんですね!”

「ええ、まぁ(笑)。でもね、良い材料なんてなかなか使いこなせなくて、いったいどれだけ無駄にしてきたことかわかりませんよ。せっかく夜な夜な働いて高価な機械や上等な材質を買い集めたのにねぇ」

最初は芦さんのことを単に異端児と思っていましたが、お話を聞いているうちに、自分や家族が生きていくために日々命懸けで生き続けてきた結果そうなっていった、ということがだんだんわかってきました。

「今ではようやくメーカーとして認知されるようになって、若いスタッフたちにも恵まれ、本当おかげ様です。でも、いまでもOEM(他社ブランドの製造請負)はやり続けていますよ。昔からお世話になっている問屋さんや、仲間のお付き合いは大切ですから」

“ひょっとしたら今日、焼入れていた包丁もそうですか?僕もよく知るお店のある屋号が刻印されていましたけど”

「そう。年々各地からの発注は増えています。全国的に後継者不足なんでしょうね。しかしまぁ、ありがたいことです。うちはスタッフも抱えていることだし」

さて、まだ作業が残っています。「そろそろお勘定を」。

工場へ戻ってきたら芦さんがふとこんなことを口にしました。
「ちょっと自分でも打ってみたい?」

”こ!こ!これはまたとないお話っ。ぜひやらせてください!!”

ということで急きょ芦刃物体験所に変身。芦先生は材料となる鋼の板をサンダーで切り分けます。チュイィィィーーーーーーン。

それを今度は炉の中へ入れて熱します。数分後、しっかりと赤らんだらつまみとり、すぐ隣の機械式のハンマーでタンタンタン!・・・タンタンタン!・・・・と叩いていきます。

あっという間に単なる長方形の板が、なんとなく包丁のような形になりました。
「ほい、やってみて!」

”はいっ!”
僕はぎこちない手つきで火箸を持ち、おそるおそる熱い炉のすぐそばまで手を伸ばし、つまみとってすぐさまハンマーの台の上に載せて”あれ?”

ペダルの踏み具合によってハンマーのピッチや強度が変わるのですが、これが意外にも難しい。

さらに、同じところばかりを打ってしまうので、せっかく包丁の格好をしていたものが、キュウリを踏み潰したような形になっていくのでした。

「ほら、もっと早く、そしてまんべんなく廻しながらたたかないと。鉄は熱いうちに打たないと言うことを聞かなくなるからね!」

そうこうしているうちに、芦さんの仕事仲間の方が訪れ、芦さんはその方と工場の外で立ち話。その間、僕は職人気分で目を細めながらどんどん熱しては叩いていきます。そして今度はキュウリがサツマイモに・・・。

10分後、芦さんが戻ってきて変わり果てた包丁を見てこう言います。

「だから鉄は熱いうちに打たなきゃダメ!柔軟な時にしっかりと形を整えて、同時に鍛えあげていくことが大事。でも無理をしすぎるとひびが入りますからそこは注意が必要。

だから後でもう一度、今度は低い温度で加工してやるんですよ。こうすることで硬さだけでなく、ねばさも兼ね備えた包丁ができていきます」

なんだか包丁作りが人生のように見えてきました。ニーズや流儀の変化は専門家からすればとても重要な問題ですが、単純に包丁作りだけを見れば、現代の日本に枯渇しているともいえる哲学のひとつが存在するような。

「何もないところからモノを生みだすって面白いでしょ!その自由を得るために必要なのが我慢や鍛錬、経験と勉強。そう。これからはあえて、昔ながらの堺の包丁作りを見せることが、新しくて面白い時代になるかもしれませんね」

妥協を許さない厳しさと、一切の邪気を跳ね飛ばす集中力があると同時に、柔和で寛容な面も持ち合わせている芦さん。僕などは中途半端だし、ボケていていけません。う〜ん、ちょっと焼きを入れてもらわなきゃだめですね。

次回は特別編

『芦刃物製作所』