胡椒専門店『KURATA PEPPER』 倉田浩伸(後編)









「なぜカンボジアで胡椒なのか?」

生れて初めて見た胡椒農園では、倉田さんの人間くささとカンボジア・カルダモン山脈の空気を感じとることができました。

午後2時過ぎ頃、我々は帰路に着きます。再びでこぼこの片側一車線道路を戻っていきます。

帰りの車中で、いくつかの気になっていることを伺いました。のどかな田園に挟まれた一本道を走りながら、まずは先ほどの胡椒の収獲後の話を聞かせていただきます。

「摘み取ったらある程度干してから実を落とすんですよ。その後真っ黒になるまでさらに天日で乾燥し、それからプノンペンの店へもっていって洗浄してから天日で干します。で、今度は一粒一粒丁寧に選別していくんです。

サイズの違うもの、欠けているもの、色が違うもの、赤く熟したもの、そうでないものなどと細かくね。それが終われば今度は除菌のための洗浄。そして再び天日干しにして、しっかりと乾燥すればできあがりです」

どうりで倉田さんのところの胡椒が美しいわけです。僕はライプペッパー(完熟の黒胡椒のことで倉田さんが初めて着手したカテゴリー)なるものを購入して驚きました。通常、日本で流通している黒胡椒とは比較にならないほど粒が大きくて、サイズが均一なのです。

また艶やかな黒色で、ほのかな酸味もあり、これほどの風味を持ったドライの黒胡椒は見たことがありません。

しかし、日当りの問題か胡椒の木の老化か、原因はよくわかりませんが、収量が減っていってるのはちょっと気になるところ。なにか対策はあるのでしょうか。

「そうなんですよね。企業としてこのままではちょっと問題。だから実は他所からの買い付けも始めています。ま、他所といっても9年前にうちから独立して生産を始めた農家なんですけどね。こちらはぼちぼちと収量が増えてきています。

他にも、うちの苗を買って生産を始めた農家もいます。数年後には買い付けすることができることでしょう。今後はこのような形も積極的に取り組んでいこうと考えています」

そうでしたか。ところでとても基本的な疑問なのですが、倉田さんはなぜカンボジアにまできて胡椒作りを始められたのでしょうか。

「よく聞かれます(笑)。実は、僕がカンボジアにはまったのは、中学3年の時に観た映画『キリング・フィールド』(1984年作)がきっかけだったんです。とても衝撃を受けましてね。1970年代から20年ほど続いたカンボジア内戦の話です。

それを見た直後から図書館や書店などへ行っていろいろ調べました。なぜ同じ人と人がそこまで殺しあえるのか。命って、人が生きるってなんなんだろうって思って。

特に澤田教一(*1)や小倉貞男(*2)の本にとことん感動しました。今でもたまに読んでいます。それが僕にとってのカンボジアバイブルですね」

そちらに詳しくなかったのでネットで調べてみました。

(*1)澤田教一とは1936年生まれの戦場カメラマン。ベトナム戦争の写真集では数々の世界的な賞も受賞。1970年カンボジア内戦を取材中に狙撃されて34歳の若さで死亡。

(*2)小倉貞男とは元読売新聞記者というだけで詳細は不明。倉田さんがバイブルとして所持していた本「虐殺はなぜ起きたか」の表紙には「世界ではじめて虐殺指令者への取材に成功した著者がポル・ポト大虐殺の全貌を明らかにする」と記されている。

「そして大学3回生の時からNGOの活動にかかわるようになり、カンボジア和平協定が東京やパリで締結された後の1992年8月、ついに念願のカンボジアへ入ることが出来たんです。

しかし、翌年には総選挙が行われたのですが、日本人の方が事件に巻き込まれたり、国内はまだまだ落ち着かない状況でした」

その後、NGOの活動からどのようにして胡椒へつながっていくのでしょうか?

「当時のカンボジアには人々が自立するための産業がなかったんです。そこで僕なりにいろいろ考えてみたのですが、元は農業国なんだからそれをやり直して輸出すればいいと思ったんです。

で、NGOが終了してから個人で輸出業を立ち上げました。最初はココナッツやドリアンなどいろいろトライしたんですけど、気圧の変化に耐えられなくて機内で破裂したり、なかなかうまく行かなくて(笑)

そして、あるとき仕事でカンボジアへ行ったことがあるという親戚から60年代の農業統計資料をもらったんです。見てみるとそこに胡椒の文字が。あ、これだって思いました。乾物で軽いし日持ちもするし!

しかし、内戦で農地はどこも荒廃しきっていて、胡椒はわずかにありましたがいいものが見当たらなくて。それで2年間調査し続けた結果、ティのお父さんと出会ったんです」

ティさんの家は代々の胡椒農家で、お父さんは昔ながらの自然農法を継承している数少ないひとりでした。

敷地内にたまたま生き残っていた3本の胡椒の木から、こつこつと再生を始めたのが1997年のこと。その場所が本稿の中編に出てきた『KURATA PEPPER』の原点の農園なのです。

それから順風満帆に胡椒を増やして、と思いきや、これがまたなにかとご苦労も多かったようです。

「主に日本で営業をしていたんですが、胡椒が売れないんですよ。カンボジア産なんだから安いんだろ?とか、たかが胡椒だろ?などといわれるだけで誰もちゃんと見てくれない。

で、そんなあるときカンボジアに帰ってきたら車もパソコンもなくなっていて、やがては将来の不信からか、従業員も辞めていきました。

あのときはもうダメかなと思いました。日本の営業所も、当時シアヌークビルにあった僕の部屋も出てしまいました。2000年前後のことです」

(シアヌークビル=コッコンの農園から南へ約140キロ。プノンペン中心地から南西へ約230キロのカンボジア随一のビーチリゾートがある町)

その後、借金返済のために死に物狂いで奔走したといいます。

「旅行会社を立ち上げて通訳や旅のコーディネートをしたり、音楽のマネージメントもやってみたり、ラーメン店を目指したこともありました。

さすがに帰国も考えましたね。でもね、日本の友人が”お前からカンボジアを取ったら何にも残らないんだから頑張れ!”と励まされました。

こうしながらも諦めかけたその頃に転機がやってきたんです。秋篠宮妃殿下のカンボジア訪問でした。その際、接見会にお呼びいただいたんです。

で、なんとなんと”ぜひお土産に頂きたい”と仰られたんですよ。本当にお買い上げいただきました。その1ヵ月後には”とても美味しかったからまた購入したい”とのお言葉も。

本当に嬉しかったです。救われました。自信がつきました!」

殿下のお墨付きを得た倉田さんは再び前に向かって走り出します。2003年には結婚。そして翌年、ついにプノンペンにおそらく世界でも類がないであろう胡椒専門店をオープンしたというわけです。

「今まで僕は商社に買ってもらうことばかりを考えていましたが、うちのカミさんがもっと地元の人に向けて売ればいいじゃない、って言うんですよ。僕が一生考えたって思いつかない発想でした。度肝を抜かれましたね(笑)」

やはり一人では手間も視野も限界があるもの。それが信頼のできる奥様と二人でなら、どんどん道が開けていくに違いありません。今の倉田さんと『KURATA PEPPER』のことが少しばかり分かったような気がしました。

車中で悲喜こもごものディープなお話を伺っているうち、夜の7時頃、車は無事にプノンペンのホテルに到着。

朝早くから車の運転をし続けてくださった倉田さんは疲れた様子も見せずに「おつかれさま!」と気持ちよく声をかけてくれました。

倉田さんのお店までは、このホテルから歩いて10分ほど。
明日はお店へいってお話を伺いたいと思います!

つづく

『KURATA PEPPER』